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孤独を認めて生きる


哲人 違います。短所ばかりが目についてしまうのは、あなたが「自分を好きにならないでおこう」と、決心しているからです。自分を好きにならないという目的を達成するために、長所を見ないで短所だけに注目している。まずはその点を理解してください。

「嫌われる勇気」
岸見一郎・古賀史建

そんなことない!と反論したくなる。
けど、人のことも、自分のことも、
短所だけに注目するのには、理由がある。

ということを、感情じゃなくて、
冷静に理屈で考えると、そうなんです。

これまでそれは「そのほうが楽だから」と
思ってたんですが、それもまた短絡的だなあと
思ったんです。

「自分を好きにならない」でおいたほうが、
好きになるよりも、
自分で自分を慰められるから。
そっちのほうが、存在価値があると思うんです

あなたのここが、素敵だよ。

と言われなくても、
好きじゃない、よくない自分を認められるのは
自分しかいないんだというふうに。

自分で自分を慰めて、生きてます。


どうして彼女は赤面症になったのか。どうして赤面症は治らないのか。それは、彼女自身が「赤面症という症状を必要としている」からです。

同上

必要としてるんです。

自己憐憫。

あわれな自分のことは、自分だけが知ってる。
だれにもこの気持ちはわからないって、
自ら、もっと、マイナスの方に価値づける。

彼女にとって、いちばん怖ろしいこと、いちばん避けたいことはなんだと思いますか?もちろん、その彼に振られてしまうことです。失恋によって、「わたし」の存在や可能性をすべて否定されることです。思春期の失恋には、そうした側面が強くありますからね。

同上

人から否定される前に、
自分で自分を否定するという肯定。

ところが、赤面症もっているかぎり、彼女は「わたしが彼とお付き合いできないのは、この赤面症があるからだ」と考えることができます。告白の気を振り絞らずに済むし、たとえ振られようと自分を納得させることができる。そして最終的には、「もしも赤面症が治ったらわたしだって・・・・・」と、可能性のなかに生きることができるのです。

同上

可能性の中に生きるというのは、
天国で楽園です。

どこまでも、可能性に夢をみていられる。
できないことの包容力の隠れ蓑にあるのは
可能性という魔法の言葉。

またあした
またこんど

別の私なら
別の人なら

その可能性の中に生きていくほうが、
その可能性を実現するよりも、目に見える。

ポテンシャルは、私の中ではなく、
よそにあると思うことにする。

可能性にふたをしてるんじゃない。
可能性に安住していたいんだ私。

哲人 赤面症を治してほしいという相談者が現れたとき、カウンセラーはその症状を治してはいけないのです。

同上

認めることは立派な態度です。でも、忘れないでください。対人関係のなかで傷つかないなど、基本的にありえません。対人関係に踏み出せば大なり小なり傷つくものだし、あなたも他の誰かを傷つけている。アドラーはいいます。「悩みを消し去るには、宇宙のなかにただひとりで生きるしかない」のだと。しかし、そんなことはできないのです。

同上

傷つくものだし、傷つけている。
傷つけている自覚は、なかったかもしれない。

そこだったんだ。

自分のことを傷つける、傷つけられていると
思ってたけど、人のことを思うようで、
それ以上に自分のことを囲って閉じていた。

哲人 孤独を感じるのは、あなたがひとりだからではありません。あなたを取り巻く他者、社会、共同体があり、そこから疎外されていると実感するからこそ、孤独なのです。われわれは孤独を感じるのにも、他者を必要とします。すなわち人は、社会的な文脈においてのみ、「個人」になるのです。

同上

孤独なのは、他者がいるから孤独を
感じているだけのことであって、
それは、逃れられない、というか、
そこに佇むところから、はじまる。

孤独でいい、って思うところから。

哲人 おそらくは、孤独という概念すら出てこないでしょう。言葉も必要ありませんし、論理も。
「コモンセンス(共通感覚)も必要なくなります。ですが、そんなことはありえません。たとえ無人島に暮らしていたとしても、遠い海の向こうにいる「誰か」を考える。ひとりきりの夜であっても、誰かの寝息に耳を澄ます。どこかに誰かがいるかぎり、孤独は襲ってくるはずです。

同上

誰か、とは誰かであり、
もうひとりのわたし。

赤面症の彼女が男性から振られることを怖れていたように、あなたは他者から否定されることを怖れている。誰かから小馬鹿にされ、拒絶され、心に深い傷を負うことを怖れている。そんな事態に巻き込まれるくらいなら、最初から誰とも関わりを持たないほうがましだと思っている。つまり、あなたの「目的」は、「他者との関係のなかで傷つかないこと」なのです。

同上

傷つかないこと。
あるいは恐れずに傷つくこと。
遠回りなようで、実は近道。

自分を生きるってそういうこと。
人の間で生きること。

と、認める。

今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。

今日は稲刈りをしました。
1人ではできない稲刈り。
刈ったお米を食べるのも、ひとりより、
誰かと。
弥生時代から令和時代に続く営みなのですね。

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