そんなことない!と反論したくなる。
けど、人のことも、自分のことも、
短所だけに注目するのには、理由がある。
ということを、感情じゃなくて、
冷静に理屈で考えると、そうなんです。
これまでそれは「そのほうが楽だから」と
思ってたんですが、それもまた短絡的だなあと
思ったんです。
「自分を好きにならない」でおいたほうが、
好きになるよりも、
自分で自分を慰められるから。
そっちのほうが、存在価値があると思うんです
あなたのここが、素敵だよ。
と言われなくても、
好きじゃない、よくない自分を認められるのは
自分しかいないんだというふうに。
自分で自分を慰めて、生きてます。
必要としてるんです。
自己憐憫。
あわれな自分のことは、自分だけが知ってる。
だれにもこの気持ちはわからないって、
自ら、もっと、マイナスの方に価値づける。
人から否定される前に、
自分で自分を否定するという肯定。
可能性の中に生きるというのは、
天国で楽園です。
どこまでも、可能性に夢をみていられる。
できないことの包容力の隠れ蓑にあるのは
可能性という魔法の言葉。
またあした
またこんど
別の私なら
別の人なら
その可能性の中に生きていくほうが、
その可能性を実現するよりも、目に見える。
ポテンシャルは、私の中ではなく、
よそにあると思うことにする。
可能性にふたをしてるんじゃない。
可能性に安住していたいんだ私。
傷つくものだし、傷つけている。
傷つけている自覚は、なかったかもしれない。
そこだったんだ。
自分のことを傷つける、傷つけられていると
思ってたけど、人のことを思うようで、
それ以上に自分のことを囲って閉じていた。
孤独なのは、他者がいるから孤独を
感じているだけのことであって、
それは、逃れられない、というか、
そこに佇むところから、はじまる。
孤独でいい、って思うところから。
誰か、とは誰かであり、
もうひとりのわたし。
傷つかないこと。
あるいは恐れずに傷つくこと。
遠回りなようで、実は近道。
自分を生きるってそういうこと。
人の間で生きること。
と、認める。
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。
今日は稲刈りをしました。
1人ではできない稲刈り。
刈ったお米を食べるのも、ひとりより、
誰かと。
弥生時代から令和時代に続く営みなのですね。