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「ひょん」が変える人生


読ませる楽しみ 読まされる苦しみ
これはほかのエッセイでも書いていることだが、僕は子供の頃から読書というものが大嫌いだった。姉たちが世界児童文学全集なんかを読んでいるのを見て、あんなものどこが面白いんだと馬鹿にしていた。ちょうど各家庭にテレビが普及し始めた頃でもあったから、活字離れの第一世代だったのかもしれない。

「あの頃ぼくらはアホでした」
東野圭吾

僕は子供の頃から読書は嫌いだった。
夏休みの日記も嫌いだし、
作文なんてものはにがてでしかなく
なにを書けば、「喜ばれるのか」忖度もできず。

わたしは
テレビやゲームの方が楽しい1982年生まれだ。

活字が離れているのにもかかわらず、今年、
こうして1年間で今年130冊ほどを読み、
noteという活字を書いてるのだから不思議だ。

中学の国語と体育は燦々たる成績だった。

そうしてやがて大学は文学部にもなるのだから
人生は摩訶不思議。


「本はええもんやで。主人公の気持ちになって、ワクワクしたり、ハラハラドキドキしたりして、楽しいで」こんなふうに、よく母親からいわれたが、「僕はええねん。僕は僕の道を行く」といって白黒テレビの前に座り、『鉄腕アトム』や『鉄人28号』に没頭していた。
それでも我が母親の頭には、「本を読む子は賢い子」という定義が出来上がっていたらしく、なんとか息子にも本を読ませようとした。その第一弾が忘れもしない、『フランダースの犬』だった。なぜ母親がこの本を選んだのかは不明である。

同上

忘れもしない、時点で、
母の作戦は成功なんだろう。

読書により本好きになること。
本好きになることで、賢い子になる。
こと以上に、「忘れもしない」ようなとが
大人になってあることが、人類を救う。


「かわいそうな少年が、かわいそうな愛犬と共に、結局なーんもいいことがなく死んでし
まう話」
ということである。こんな内容で、ワクワクしろとか、ドキドキハラハラしろとかいうほうが無理ではないか。
「なんじゃい、本はやっぱり鬱陶しいもんやんけ」ということになり、ますます読書嫌いになってしまった。

同上

そんなもんである。
そんなもんでも、覚えてるんだから不思議。
そんなもんだから、覚えている。
としたら、フランダースの犬はむしろ
不朽の名作になる。

偉い人が成功した話なら、僕の気をひけると思ったのである。そして母親の計算通り、この物語は僕の心をとらえた。物語は、ある晩餐会から始まる。ガリレオ少年は父親に連れてこられたのだが、周りは大人ばかりでつまらない。

同上

つまらないほど、つまらないのであるが、
つまらないときほど、何かを産む。

何か面白いものはないかと思って見回すと、天井でシャンデリアが揺れていた。彼は最初のうちはそれをぼんやりと眺めていたが、そのうちにその揺れに一つの特徴があることを発見する。揺れ幅がどんなに小さくなっても、シャンデリアが往復する時間は変わらないというものだった。いわゆる振子の法則である。彼はそれを自分の脈拍を使って確認するのだ。
すごい発見をしたと思った彼は、大人たちにそれを主張するが、まともに相手にしてく
れない。
「なにいってるんだ。揺れ幅が小さくなったら、往復する時間は短くなるに決まっている
じゃないか」
といって笑うばかりなのだ。ガリレオ少年は、この悔しい思いを晴らすべく努力して科学者になり、数々の物理法則を発見したり証明したりする。

同上

証明したりする。

人生の転機は「ひょん」から産まれる。


ど退屈そうなもん読んどるなあと思うだけで、全く関心を持てなかったのだ。
ほかにはどういうものがあるのかなと思い、次姉の本棚を眺めた。松本清張の『高校殺人事件』という本が目に留まった。やはり学生が主人公の作品のほうが、とっつきやすかったのだ。
その本を今度は三日で読んだ。読みだしたらやめられなくて、布団の中でいつまでも頁をめくっていたなんてことは、生まれて初めての経験だった。本の内容そのものより、自分がそんなことをしているという事実に、僕は興奮した。
続いて『点と線』を読み、さらに『ゼロの焦点』を読んだ。たて続けの快挙である。

同上

本のな内容そのものではない、と言われては
作家にとって、身も蓋もない話なんだが、
そうでもない。

布団の中で読み耽られる作品かどうかが
作家の人生を決める。のかもしれない。

少年少女の快挙を、いかに産むか?



そんなある日、僕は突然とんでもないことを考えた。大胆というか、命知らずというか、なんと自分で推理小説を書いてみようと思いたったのである。

同上

とんでもないことを、思わせたら勝ち。
思わせるだけでなく、書かせてしまうほどに。


ただし今回は完成するまでに約四年を費やした。受験があったからだ。
書き上げると他人に読ませたくなるのが人情である。僕は大学の友人の一人に飯を割り、この小説を渡した。読書好きの友人は、快諾してくれた。
「それで、できたら感想文を書いてほしいねんけどな」読ませる楽しみ読まされる苦しみ
と僕はいった。オーケーと、これにも気前よく返事してくれた。
だがその後、この友人とはなかなか会えなくなってしまった。姿を見かけても、なんとなくむこうが避けているようなのだ。
結局、彼から小説と感想文を受け取ったのは半年後だった。しかもゆっくりと話す暇もなく、
「俺、バイトがあるから」
といって彼は逃げるように去ってしまったのだ。

同上

読まされたのだ。


一人になってから、僕はワクワクしながら感想文を読んだ。そして愕然とした。

そこには半分ぐらいまで粗筋を書いてあり、最後に、「ごめん」
と小さく書き足してあったのだった。

同上

読ませる楽しみはひとしおだ。
さあどうだと、noteを送り出す。

はて、読まされる側の苦しみは
考えたことがまたあるだろうか?


今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。

今日の本心

読まされるより、読ませたい、本気で。


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