もやもやしたときは
「おとなの小論文教室」山田ズーニーさんの
新年の投稿より。
「コミュニケーション不足」は
日常のいろんなところで言われるけれど、
たいていその瞬間はそれが「もやもや」の原因
とは気づかずに流していることが多い。
たとえば「映画」という、ようなある物語から
客観的に眺めてみると見えることがある。
「なんでそう言うんだろう?」
「なぜ、そんな行動をしたんだろう今」
と、なんとなく違和感をもったり、
「おかしいなあ」と首を傾げたり、
心がざわついたり、した瞬間をほっとかない。
「なぜいまそんなふうにしたの?言ったの?」
「いまのそれは、どういう意味で言ったの?」
と。ただ、
そう言うことは、相手を責めているように、
ともすれば聞こえてしまうから気が引ける。
が、それではミスコミュニケーションは広がる
し、もやもやは消えない。
昭和57年生まれの私にはわからないことも
多いけれど、
もしかしたら昭和という時代は。
あるいは平成という時代は、令和よりも、
聞いたり、言ったりしてたのかもしれない。
いつでもどこでもコミュニケーションが
とれてしまうからこそ、スマホやSNSは、
「わざわざ言わなくても」とその会話の、
コミュニケーションのレベルを落とした?
「家族ならわかるだろう」みたいなものが、
会社や友人関係でも増えた、のだろうか。
関係性が希薄になった、といえばそれまで
だけど、「もやもや自体」「違和感を感じる」
ことそのものが希薄になったのか。
ほとんどの場合が、そうなんだ。
私的なことだが、
2024年は
「思ったことが言えるように少しなった」
年だった。(それ以前は皆無に等しい)
だからこそこの投稿、文章に惹かれた。
だからこそ2025年は、
「もしよかったら、なぜだか教えて?」と、
「ちょっと聞く」ようにしたい。
そうなんですよね。
聞けば、なんてことなくて、ああ、
聞いてよかったあ、で終わることの方が
ほとんどだ。
もやもやしたら、ちょっと聞く。
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。
今日の本心
違和感を無くしたら、おわりそうな気がする。