無いなかにこそ有るなにか
昼
夕暮れ
夜
明け方
それぞれに身を置くと魅力があるが、
おそらくかなり意識しないと感じにくいのが、
朝だと思う。
幼少期、児童期、学生期、社会人期と
そのいずれにおいても朝はバタバタしている。
文字通り。
何かが始まる予感を味わうまでもなく、
何かを「始めざる」を得ず追われるのが朝だ。
テストか仕事かで徹夜して明けたか、
パリやブラジルのオリンピック明けか、
飲み明かした朝か。
バタンQで味わう余裕がない。
だからなのか、
「朝という言葉の響き」という響きに
ハッとする。
「朝」という旅行。
旅行先は朝だ。
いつもの街並みの朝に、出会いにゆく。
出張先のホテルが繁華街なら、
翌朝6時の雰囲気がこれに似ている。
ついさっきの、深夜から夜明け前までの
喧騒とのギャップに耐えきれない朝が、街が
そわそわしている。
徹夜した人と徹夜した街は似ていて、
気だるさを残しながらも
「始まらざる」を得ない朝の宿命に、
人間らしさと自然らしさと街らしさが重なる。
これまで旅先で迎えた朝で、印象的だったのは
バイクと車のクラクションが鳴り止まぬ
じゃり道のそばで湯気のたつチャイを売る、
インドのアグラ。
朝日登るバラナシのガンジス川。
灼熱のイメージに反してひんやりとした
朝日に照らされる湯気は優雅に泳いでいた。
朝と昼と夜の音は違う。
ふつう、に考えると、
朝の喧騒から夜にかけて、音は大人しくなる。
だからよけいに、
朝の無音は、活気づき、「始まる予感」の中で
ことさら際立つ。
これはとくに街中では得難くて、
自然、大自然の中でこそ味わえる無音の無常。
無いなかに有る、在るなにか。
小石の転がる音はふだんは、耳を澄ましても
聞こえないし、鳥のさえずりだってそうで。
雲は動いてるのに、雲の音はしなくて。
無い中に身をおくほど、得られるものが有る。
今度旅するときは、
場所を巡るのではなく時を巡りたい。
それは旅行先でなくてもきっと、
いつもの街の中にもあって、
音とともに、無音と共に楽しめるはずだ。
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。
風は強く吹くほど音がするけれど、
そよ風であっても、ものにあたると、
揺らして音を立てる。
そんなふうに生きたい。