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無責任


いくつもの映像や文章に影響を受け、
そして現在

僕に影響を与えた言葉やメッセージが無数にある。そのうちの幾つか。
たとえば、「絵とは何か』というタイトルの本。十代のころ父からもらった本だ。帯にこうある。
「人の一生は、一回かぎりである。しかも短い。その一生を想像力にぶち込めたら、こんな幸福な生き方はないと思う」この非常に魅力的で無責任な言葉に、僕は磨された。

「3652伊坂幸太郎エッセイ集」
伊坂幸太郎

父からもらう本、は影響を受ける。

帯、は時に本以上に、影響が残る。

想像力にぶちこむ。

現実や理想にぶちこむのならわかるが、
そうではなくて、
想像力にぶちこむというのは
勇気をくれる。

それでいいんだ、それこそが幸福だ!

無責任な言葉ほど、実は影響が深い。

責任が問われる、責任を問うことが、
どことなく昔より強いと感じる世の空気の中で
あえて無責任さのなかに想像力が働く。
むしろ、生きる。

たった数行の伊坂さんの言葉・メッセージに
この先のページを巡らずにいられなくなる。

たとえば、映画監督マイク・リーのインタビュー記事。エンディングがいつも乱暴に終わりますね、と質問されて、「観客は映画を観ながら旅に出るんだ。ただ、ある時点が来ると映画は「さあ、きみは旅に出た。わたしたちはここに残るが、きみはそのまま先へ行ってくれ』と告げる」と答えていた。そうだ、僕はまさにそのような小説が書きたいのだ、と気が付いた。

同上


乱暴さという無責任さ。

「残るから先に行け」という無責任さ。

だから、よい。

360度の配慮に固められた、
優しさという名の無情さよりも、
突き放されることの中にある、愛。

そういう仕事がしたい。

そういうnoteを書いてみたい。
(勇気がかなりいる)

そういう生き様に憧れる。
(童心と書いて、憧れ)


たとえば、賞の応募要項。
書きたい小説を好き勝手に完成させたはいいものの、どの賞へ応募すべきだろうかと悩んでいた僕の目に飛び込んできたのが、選考委員である奥泉光さんの言葉だった。「そこにある言葉を読み進むこと自体が快楽を生むかどうか」とあった。そうだよな、そうだよな、小説というのは本来そういうものだよな、と自分の技術は棚に上げて、僕は嬉しく感じた。

同上

作品を読むこと
読み終えた時のこと
読む前の高揚

ではなくて、読み進んでいる中にある快楽。
それこそが、快楽。

文を読む、文章を読むでもなく、
言葉を、読む。

賞をとる責任。
授与する責任。

ということでなく、
ある意味無責任に言葉を書き進める快楽の先に
言葉を読み進めるだけの無責任さがあり、
快楽がある。

そんな想像力をはたらかせて書く。


たとえば、賞の選評。
馳星周さんがかなり挑戦的な選評を書いているのを発見した。
「新人賞の選考委員を務めさせてもらったが、総じて退屈だった」と。そうか、それなら自分が送ってやろうじゃないか、僕は見事にその気にさせられた。
オリジナルな物語を作りたい、そう願いながらも、僕は幾つもの映像や文章に影響を受けている。これからもきっとそうだろう。

同上

退屈だと言うのは、
決して無責任ではなく、責任ある言葉。

そして、沸き立つ創作意欲。

できることならば、それらを反対に飲み込んでしまうくらいの小説を作り出したい。
そうたくらむのはきっと自由だ。

同上

無責任は、自由だ。

自由に伴う責任ほど、豊かだ。

そんな生き方をしたいと想像をふくらませる。

今日もお付き合いくださり
ありがとうございます

真夏にのびた川沿いの雑草は、
無責任で自由なようで、まっすぐ整然と、
太陽に向かってのびのびと生きているように
見えた。

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