在り続けるために
なりつづける
どんな者にでもなることはできる。
自作の名刺に「〇〇のmae3です」と書けば、
たしかに、「成る」ことはできる。
けど、「為る」ことはできない。
成ると為る、は違って諸説あるみたいですが、
to be と
to do の違いと仮に解釈すれば、
なにかになれても、
なにかをする、できることにはならない。
それは、
「なりつづけることは難しい」
ことに通じるのかな。
なにものかで、自分が在り続けるためには、
「し続けられる自分」で有らないといけない。
し続けることで、なることができて、
なり続けることができる。
そうして初めて、
何者かで「在る」ことを、
自分自身がしっくりきていると同時に、
誰かにとって、あなたは、
「 」をする方ですね、と他意なく
自然と言われるようになれるのかな。
どうしたら、いいのだろう。
「あなたの好きなように、したらいいですよ」なのかな。
朝日と夕日
30代は夕陽が好きで、
40代は朝日が好きです。
ざっくりいうとそうなんだけど、
たしかに、
きのうの夕陽が好きで、
きょうの朝日が好きなこともある。
その違いは単純にいえば、
切ない夕日と、
明るい朝日、なんだけど、
明るい夕日で、
切ない朝日なときもある。
うん、太陽はおなじなだけで、
自分がちがうだけで、
太陽は、人間ドック。
太陽は、自分を映している。だけかも。
太陽は思い出に結びつく。
とくに、朝日より夕日のほうがノスタルジック
に、心と結びつきやすいのかな。
いるものも、いらないものも、
引き寄せてくる、月より強い引力がある。
夕日はノスタルジック、で片付かない
愛しさと憂がある。
朝日も夕日も、低ければ長い影を落とすけど、
夕日のほうがどこか物悲しさを映す。
まるで人生のように。
たまたまなのかもしれないけど、
同じ沢木耕太郎さんのエッセイに、
「続け」ときた。
なりつづけることと、
つづけざまであること。
なりつづけるには、
つづけざまに物事をすることでとあり、
つづけざまは偶然の産物であり、
結果的に成る、在る自分を作ることでもある。
今日もお付き合いくださりありがとう
ございます
秋の近付く夜は、いらぬことをあれこれ
考えがちだけどそれもまたいとをかし。
そこに、月が在る。月は月になりつづける
ために、毎夜変化しているんだなあ。