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在り続けるために


なりつづける

黒田征太郎さんとは、私がフリーランスのライターとしての活動を始めようとしていた二十三歳のときに出会った。黒田さんは、私に名刺がないと知ると、「ルポライター」という肩書をつけた美しい名刺を無償で作ってくれる、と言った。
「どんな者にでもなることはできる。肩書をつけた名刺を一枚持てばいいんだから。
しかし、難しいのはなりつづけることだよ」

「旅のつばくろ」沢木耕太郎

どんな者にでもなることはできる。

自作の名刺に「〇〇のmae3です」と書けば、
たしかに、「成る」ことはできる。
けど、「為る」ことはできない。

成ると為る、は違って諸説あるみたいですが、
to be と
to do の違いと仮に解釈すれば、

なにかになれても、
なにかをする、できることにはならない。

それは、
「なりつづけることは難しい」
ことに通じるのかな。

なにものかで、自分が在り続けるためには、
「し続けられる自分」で有らないといけない。


フリーランスのライターとして四十数年後の現在まで仕事を続けている。黒田さんが忠告してくれたように、「なる」だけでなく、「なりつづける」ことができたと言えるかもしれない。

同上

し続けることで、なることができて、
なり続けることができる。

そうして初めて、

何者かで「在る」ことを、
自分自身がしっくりきていると同時に、
誰かにとって、あなたは、
「  」をする方ですね、と他意なく
自然と言われるようになれるのかな。

運転手さんとの会話が途切れ、しばしの沈黙が訪れたとき、私は雨に煙る日本海を眺めながら、ぼんやり考えていた。
さて、「なりつづけた」あと、人はどうしたらいいのだろう、と。

同上

どうしたら、いいのだろう。

「あなたの好きなように、したらいいですよ」なのかな。

朝日と夕日

もしかしたら、人は太陽が昇るのを見ることが好きな人と沈むところを見る方が好きな人に分かれるのかもしれない。いや、同じ人でも、そのときの心理状態の違いによって、朝日と夕日の、心に滲み入ってくる度合いは変わってくるのかもしれないとも思う。

同上

30代は夕陽が好きで、
40代は朝日が好きです。

ざっくりいうとそうなんだけど、
たしかに、
きのうの夕陽が好きで、
きょうの朝日が好きなこともある。

その違いは単純にいえば、
切ない夕日と、
明るい朝日、なんだけど、
明るい夕日で、
切ない朝日なときもある。

うん、太陽はおなじなだけで、
自分がちがうだけで、
太陽は、人間ドック。

太陽は、自分を映している。だけかも。

間違いなく、夕日には遠い過去の悲しみを思い起こさせる魔的な力がある。しかし、私は、さして多くの「過去の悲しみ」を持っていなかったはずの少年の頃から、夕日を見るたびに胸が締めつけられるような思いをすることが多かったのだ。

同上

太陽は思い出に結びつく。
とくに、朝日より夕日のほうがノスタルジック

に、心と結びつきやすいのかな。

いるものも、いらないものも、
引き寄せてくる、月より強い引力がある。

少年時代のことを思い出すと、決まって、放課後、学校の近くの原っぱで友達と野球をしたあと、みんなの家とは少し離れていたためひとりで帰っていた川沿いの道が浮かんでくる。そのとき、少年の私は、その道を歩きながら、傾きかかった夕日の光の中で、理由もなく胸が痛くなるほどの物悲しさに襲われていたものだった。

同上

夕日はノスタルジック、で片付かない
愛しさと憂がある。

朝日も夕日も、低ければ長い影を落とすけど、
夕日のほうがどこか物悲しさを映す。
まるで人生のように。


かつて私が「続けざま」に海に落ちる夕日と海から昇る朝日を見ることができたのはポルトガルでのことだった。

同上

たまたまなのかもしれないけど、
同じ沢木耕太郎さんのエッセイに、
「続け」ときた。

なりつづけることと、
つづけざまであること。

なりつづけるには、
つづけざまに物事をすることでとあり、

つづけざまは偶然の産物であり、
結果的に成る、在る自分を作ることでもある。

今日もお付き合いくださりありがとう
ございます

秋の近付く夜は、いらぬことをあれこれ
考えがちだけどそれもまたいとをかし。

そこに、月が在る。月は月になりつづける
ために、毎夜変化しているんだなあ。

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