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『「いい人」をやめると楽になる』

この本の表題を決めることになった時、私はつまりこの本は・・・・・「いい人をやめると楽になること」を書いているんだな、と思った。
こういう実感は簡単明瞭なのだが、自分がそれを承認するまでには、少し年月がかかるものなのかもしれない。

『「いい人」をやめると楽になる』
曽野綾子

「いい人、と思われなくていい」
「好かれようと思わなくていい」
と言われ続けて2年半ほどになりますが、
やっとわかってきました。

そう言われてきた理由は、
「メンバーに対して、ダメなとこはダメ」と
言えないのが「いい人としていようとしすぎる」
があまり言えないから、というものです。

と、自覚して頭ではわかっていても難しい。

ただ最近それがすこしずつ言えるように
なってきたのは「いい人、でいなくていい」
というのは自分のためでもあるなと
思えたからなんです。

若い時には、人は多かれ少なかれつっぱっている。いい顔を見せたい。あんまりばかだと思われたくない。私はそれを向上心というのだろうと思って来たが、年を取るに従って、それも嘘くさく思えて来た。

同上

「いい顔を見せたい」とも思ってきていたがため
に、自分をも苦しめてました。

何を言われても、いい人でいられるというのは
ある意味強さでもあり、そういう向上心ゆえか
とも思ってましたが違いました。

かっこよくもない。

本心ではそれ違うよな、とか、
言い返したいことも我慢しているうちに、
自分が自分でなくなっていくような。


人はまず生きなければならない、ということを私はいつも感じて来た。私には子供の時、不幸な結婚生活をしていた母に自殺未遂をさせられそうな体験もあったから、今さら自殺するのは、芝居がかっていて嫌なのである。とするととにかく生きていなければならない。

同上

そこまでの経験は自分にはないのですが。

「まず生きる」ということ。

いい人であるまえに、生きなければいけない。

いい人でいようとすると、生きてる実感が
なくなってくる。ことがあります。


日本では生きるということは、選択を伴ったものである。しかし私は途上国を歩いているうちに、生きることには選択もできない場合が多いことを知った。
夕飯に食べるものがなければ、人はどうするか。盗むか、乞食をする他はないのである。どちらもあまりいいことではない。しかし乞食をすることも盗みをすることも悪いとなると、国中貧しくて産業はなく、飢餓に襲われた土地ではどうして生きて行ったらいいのだ。
多くの土地では、いい人として生きることなどやめて、できることをして生きて行くほかはないのだ。

同上

生きることは選択を伴うものであることが
当たり前でした。が、そうでない世界もある。

「いい人」という選択もできてしまうから
選択しているだけでした。

選択肢が、あるということは幸せなことかも
しれませんが、ある分迷いと、
「選択していることさえ気づかずに蝕まれている」こともある。

できることをしていく。

できることをするのが生きること。

日本では、いい人の反対は悪い人だと多くの人が思っている。しかし現実には、いい人でも悪い人でもない中間の人が、人数として八割に達するだろう。私もまた、その中の一人、と思うとほっとして楽しくなる。
実はいい人の反対は悪い人、と思う図式は単純思考の現われである。日本人は勉強家で優秀な人が多いのに、考え方が幼児化するのは、黒か白かでものごとを片づけ、その中間の膨大な灰色のゾーンに人間性を見つけて心を惹かれるということがないからかもしれない。

同上

中間である。
灰色を生きている。
それで、いい。

ホッとする。

いい人と、悪い人の中間で生きていく。

小説家志望だった若い頃、私は同人雑誌の仲間から「どんな複雑なことも、平明に書けなければならない。平明な表現は慎みの一種である。分かりにくい表現が高級なことを書いている、と思うのは、大きな間違いで、それを悪文というのだ」と習った。
爾来、その教えを胸に書いているが、今度この本に題をつける時も、その言葉を思い出してしまったような気がする。

同上

「平明な表現は慎みの一種」
この11字に撃たれます。

いい人は複雑で、悪い人も複雑で、
白黒はっきりしているようで、
抱えているものが大きい気がします。

平明であるということは、灰色かもしれない。
中間色。そしてきわめてわかりやすい。
もちろん抱えているものもあるけれど、
バランスがとれてるんだろうと思います。

平明な文章、平明な生き方、
平明な2025年になりますように。

いい人をやめて楽になる一年に。

今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。

きょうの本心

自分に、いい人であろう。


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