『「いい人」をやめると楽になる』
「いい人、と思われなくていい」
「好かれようと思わなくていい」
と言われ続けて2年半ほどになりますが、
やっとわかってきました。
そう言われてきた理由は、
「メンバーに対して、ダメなとこはダメ」と
言えないのが「いい人としていようとしすぎる」
があまり言えないから、というものです。
と、自覚して頭ではわかっていても難しい。
ただ最近それがすこしずつ言えるように
なってきたのは「いい人、でいなくていい」
というのは自分のためでもあるなと
思えたからなんです。
「いい顔を見せたい」とも思ってきていたがため
に、自分をも苦しめてました。
何を言われても、いい人でいられるというのは
ある意味強さでもあり、そういう向上心ゆえか
とも思ってましたが違いました。
かっこよくもない。
本心ではそれ違うよな、とか、
言い返したいことも我慢しているうちに、
自分が自分でなくなっていくような。
そこまでの経験は自分にはないのですが。
「まず生きる」ということ。
いい人であるまえに、生きなければいけない。
いい人でいようとすると、生きてる実感が
なくなってくる。ことがあります。
生きることは選択を伴うものであることが
当たり前でした。が、そうでない世界もある。
「いい人」という選択もできてしまうから
選択しているだけでした。
選択肢が、あるということは幸せなことかも
しれませんが、ある分迷いと、
「選択していることさえ気づかずに蝕まれている」こともある。
できることをしていく。
できることをするのが生きること。
中間である。
灰色を生きている。
それで、いい。
ホッとする。
いい人と、悪い人の中間で生きていく。
「平明な表現は慎みの一種」
この11字に撃たれます。
いい人は複雑で、悪い人も複雑で、
白黒はっきりしているようで、
抱えているものが大きい気がします。
平明であるということは、灰色かもしれない。
中間色。そしてきわめてわかりやすい。
もちろん抱えているものもあるけれど、
バランスがとれてるんだろうと思います。
平明な文章、平明な生き方、
平明な2025年になりますように。
いい人をやめて楽になる一年に。
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。
きょうの本心
自分に、いい人であろう。