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「微」ということ


ヨシタケシンスケさんの絵本は好きで
読んでいたので、先週公開されたこの記事は、
ショック、というか。
というよりも、もっと愛しく、愛しくありたい
と思いました。

自己肯定は「好きになる」がゴールじゃない。「嫌いのままでいる」も、ひとつのゴールなんだよな、と。

「微うつ」歴50年の異変...ヨシタケシンスケさん
と「助けてボタン」

この記事のことを、微うつとの告白と、
その続きを、このnoteで今の私が語れない。
語れないし、今そのことの感想をありのままに
書くこともできないと思いました。

ただ、この

「嫌いのままでいる」も、ひとつのゴール
なんだよな、という言葉に救われました。

そう、そうなんだよなぁ、と。

そして、この記事の中身というよりと、

「微」という言葉のもつエネルギーや
その奥にあるニュアンスに、ある種、
惹かれるような思いになりました。

微熱
微量
微力



その目に見えないものたちが、
「微」ーかすかな
ものであることをそっと添えられるだけで、
どこか手触り感のあるものに、変わる。

人によってきっとその幅は違うんだけれど、
無機質なものに、有機的な人のぬくもりや、
こころの内側をそっとカーテンのそばから、
のぞかせるような不思議な魔法を纏ってる。

「微妙」

は、微かに妙であること。

妙なんだんけれど、奇妙なんだけれど、
ちょっとだけ、妙に感じていることを、
それとなく伝えてくれるもの。

「ビミョー」

とカタカナに変えられることが多いこの頃。
こうなるとまた、あんまりよい気がしないもの
でもあるんだけれど。

漢字に戻してみると、
「カスカ」なのである。
時々、漢字に戻してあげたくなる。

よい気を纏っている言葉として、思ったのは、

「微笑み」

だった。

ほほえみ。

笑みでも、爆笑でも、なく。
無理して笑うでもなく、
周りに合わせて笑うでもなく、
腹を抱えるほどでもなく、
おおっぴらに相手に伝えるでもなく。

微笑みって、自分のためにあるんだと思う。
だれかに気づかれなくても。
自分さえも気づかなくても。

いつのまにか、心のなかで、
知らないうちに笑みがでるくらいの安らぎ。
でも実は、尊いもので。

「微」は、だれかと心を交わすためのもの
であるのとともに、
じぶんとの距離をうまく取るための言葉。
なのかもしれない。

微笑みの裏側で、
じぶんのことが、好きでも嫌いでも、
いいんだよって、しずかに叫んでる。

今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。

りんごかもしれない。

読みたい。

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