書くことは、旅すること
「自分は、どこの何者でもない」
これは、若者、に限らず。
いま42歳、会社に属しているから、
「肩書き」は一応、ある。
肩書きは、肩に乗ってるだけで。
ある意味、「依存」でもある。
それが無くなれば、
「何者」といえるものは、何もない。
怖いものである。
定年を迎えられる大先輩方が
「明日からは、何者でもない」ことへの
恐怖をよく聞く。
だから、
「何者かになるために、旅をする」
ことが必要だと思った。
若い頃は、よく旅をした。
インド、フィリピン、ニュージーランド。
国内も旅したけれど、
日本人であるという「依存」による
安心感は、半端なくて、
そしてそれは気づかない。
「そもそも日本人」であることに
依存できない海外「旅」は、
「自分は何者で、なんでこの国にいるんだ?」
から、問われている。
入国審査で、問われる。
ある意味、「出国審査」でもある。
国を出る理由🟰日本を置いて出る意味、
を突きつけられる。
そうだった。
20年前は、「自分探し」が「流行って」
もいた。
それって、
「生まれてきた意味」を確かめに行く
旅でもあった。
「越境」することでこそ、
見えてくる、生まれてきた意味と、
生きる意味。
人は自由に旅ができる。
「旅🟰生きること」
でも、日本にいても、仕事をしていても、
それは、旅。と思えば、また景色も違う。
仕事をして、子育てをしていると、
なかなかそう簡単に、「海外旅」はできない。
(海外旅行、はできるかもしれないけれど)
そこで思ったのは、
日本での日々、仕事の日々、
家庭での日々を、「越境」していくのが、
「noteという旅」
ここで、
「旅とは何か?」
という定義、意味が求められる。
旅とは、
「自分から離れること」
であり、
「自分は何者か」
を知る手段、ともいえる。
noteは、移動する中で生まれる。
「きょう何かこう?」
のヒントはいつも、「移動の中の気づき」
のある一点から生まれてくる。
それこそは、旅。
旅での出会いが、思いがけない
かけがえないものであるように、
noteでの出会いは、ほかでは味わえない
出会い。
(Xやインスタ、tiktokともまた違う出会い)
そんなことを思いながらも、
あんまり肩肘はらずに書こうと思う。
肩も肘も、いちどおろしてみるところに、
旅の醍醐味があるように、
noteの醍醐味を味わう。
書くことは、生きることだ。
書くことは、旅することだ。
書くたびに、新しい発見がある。
自分が、浮き彫りになる。
きょうもお読みいただきありがとうございます
写真は、きょう撮りたての竹の節です。
竹は、節目でつよくなる。
竹は、「自分は何者か」をとても語ってる
ように見えてきました。
上へ上へ伸びていく「越境」が、
その魅力を存分に表していくんだなあと
思わずにいられません。
きょうは、べつになんでもない1日でしたが、
「節目」ってことにして。
旅を続けていきます。