大阪が東京になる
梅田スカイビルを舞台にした、というには
大袈裟なエッセイを前に書きました。↓
エッセイにする、文章にすると、
その場所がなんだか「懐にある懐かしさ」に
なります。
「青春時代を過ごしたあの場所」という
いわゆる感傷に浸る懐かしさとは少し違って、
主観と客観が入り混じったような、
心というよりは懐に沁み入る懐かしさ。
不思議。
2024年9月6日に一部開業したグラングリーン
「うめきた」といえば「地下通路」。
(すみません大阪の方にはわかるかなの通路)
だったんですが、すっかり景色が変わり
大阪が東京に変わってしもた、と思いました。
かなしいような、うれしいような、
かなしいような。
東京ミッドタウン・六本木みたいです。
(なんて、東京の方におこられそう)
故郷の変わりゆく姿は、どこか切ない。
進化の過程、発展し続ける社会は、
わるくないんだけど、どこか切ない。
成長し続けるうめきた。
成長は、明るい。
ワクワクする。
うん。
夜だったから。
夜に散髪した直後だったから。
なのか。
ワクワクとドキドキではなく、
キラキラでもなく。
懐にある胃に、母親の肉じゃがが
消化されて消えていくような感じがした。
「書きたいが書けるに変わる創作講座」
の二作目のテーマを、
「二項対立の小説」としようとしてるから
かもしれない。
大阪と東京、は必ずしも二項対立では
ないんだけれど、
大阪人の私としては、それに近いものがある。
大阪か東京か、って話ではないんだけど、
優劣とか、善悪とか、どこかそれに近いもの
があって、
「大阪が東京になっちゃう」感じがした。
エッセイや小説を書くってなると、
また日常の見え方や書き方が変わるから
面白い。noteもまたそれに近い。
「書きたいが書けるに変わる創作講座」は、
その講座自体はもちろんだけど、
日常のなかにこそ、あるのかもしれない。
書きたいを、書けるに変えてくれる日常。
こんな昭和を残す、っていうよりも
昭和レトロと令和モダンの融合って
できないのかなあ、と思いたくなる。
分煙でも禁煙でもなく、喫煙。
分煙がもたらした、健康と、分断。
そんなへんなことを思ったのも
これを今朝の通勤、阪急電車で
読んだからかもしれない。
昭和か令和か、に優劣はないはず。
脱して、構築していけばいい。
大阪か、東京か、でも、きっとない。
過去か、未来かでもない。
自分と、他人、でもない。
たしかに!
無意識に多様性多様性多様性と、
ゆってたけど、画一を画一に否定するという
多様性のなさ!
仕事における
脱属人化は、属人を否定しているけど、
すべてが属人から脱したら、
人が要らない仕事になる。
それって、全ロボット化にしたいわけ。
ではないはずなのに。
属人と、脱属人の間をゆけないのか。
成長し続ける大阪。
成長しないことを否定しているわけじゃない
んだろうけど、
立ち止まる大阪。
横道に逸れる大阪。
ワクワクより、惑惑。戸惑う大阪。
なんて、そんな大阪もあっていいのかも。
大阪を、わたし、に置き換えてみる。
成長しつづけるわたしと、
成長しないわたしと、どちらもわたし。
東京というキラキラした誰かに、
勝たないと、わたしで居られないわけでもない
わたしは、わたし。
大学の時は、近現代世界史を学んでいて
(学んだと言えるほど勉強しきれてない)
「回帰的近代化」
っていう言葉だけ、なぜか懐が覚えている。
(正しい意味は覚えてないけれど)
回帰しながら前に進む。
そんなあい矛盾に、20さいのわたしは、
子どもと大人が矛盾する自分を重ねていた
のかもしれない。
(知らんけど!)
なんか、こむずかしくなったけれど、
大阪のことは好きです。
だって、それがわたしだから。
と、いうようなことを
書いた前作のエッセイから、
次どんな小説をかいていくのかな、わたし、
ということを楽しみにしています。
そういえば、
東京は大阪より緑が多いと聞きます。
そこはちょっと羨ましいなあと思います。
大阪のてんしば、もそうだけど、
大都市の中にグリーンがあるのは、
矛盾してるようで融合していて、
どこか可能性を懐で感じています。