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自分の鎧を脱いでみる。


みんなから「私、あの人と仲がいいんだ」と自慢されるような人になりたかった。
いつでも気の利いたことを言える、スピーチの達人になりたかった。一緒にいて楽しい人だと思われたかった。
私はかっこつけるためにー
鎧で身を守るためにー
それこそ多大な努力を払って、「活発」「ほがらか」「楽しい」「ポジティブ」「元気いっぱい」などなど、誰もが好感をもつ理想のイメージを片っ端から体現しようとした。

「静かな人の戦略書」ジル・チャンさん

「すっごい鎧を着てたな」

と、親しい人に、出会った頃を振り返って
言われたことがあります。

「もっとそれ、はよゆうてよ」

と思いましたが、それを言えないくらい
「鎧」を着てたんだと思います。

私にとっての鎧、
その時言われた鎧とは、

自分を取り繕って、大きく見せようとしている
自分を偽って、相手によく魅せようとしている
自分ではそれに気づかず、無意識に無理してる

ということ、だったんだな。
そしてそれを見透かされてた、というか
丸見えだったんだな、という
壮絶な衝撃でした。

そして、
鎧を着ている人と、
着ていない人とが、
見えてくるようになりました。

鎧はずしりと重くなるいっぽうだったが、護身のためだし、こうすればみんなに好かれる、期待に応えられると思っていたから、どんなにしんどくても、私は鎧を脱ごうとしなかった。あるとき、出張でマレーシアへ行くまでは。

同上


そう、護身なんですよね。保身ともいう。
だから、鎧に鎧を重ね鎧が自分かわからなく
なるくらいに。
猫を被る、比じゃない!

そうして、鎧は剣になり、
自分に痛々しく突き刺さる。


その出張中、スーザン・ケイン著「内向型人間のすごい力』(講談社+α文庫)を読んだ私は感動のあまり、5日間で3回も読み返してしまった。読みながら何度も手を止め、顔を上げ、深呼吸をせずにはいられなかった。
私が心底揺さぶられたのは、ようやく気づいたからだー私はべつに、ほかの人たちより劣っているわけじゃない。ただ、ちがうだけなのだ、と。

同上


たまたま私も、同著を本屋の棚でみつけて、
これまた衝撃的に衝動買いして、
救われました。

あ、内向型ってアリなんや。
っていう素朴な、天使がおとずれました。

あのまましらずにいたら、
鎧人間でした。

社会のメインストリームの価値観は、単一の基準になってしまいがちだ。美しさの基準や成功の基準というものが存在し、人の性格も、ひとつのタイプだけが「普通」とされる。
私たちは、みんなそのひとつの基準を満たそうとして努力しているうちに、自分が本当はどんな人間なのかを忘れてしまうのだ

同上


忘れるんですよね、
努力してるのに。努力してるから。

そうしてそれも、きっと、
人生を彩る、必要なプロセス。

普通とは、マルチな自分を内包し、
自覚していること。


本当の自分らしさを理解し、強みを見つけ、内向性を補えるようにしようと思ったのだ。
いまでも私は鎧をもっているが、以前よりずっと機能的で軽くて、よくフィットするし、ー本当に必要なときだけ身に着ければいい。世の中に向かって堂々と「私は内向型人間です!」と叫んだってかまわない。それでも、私の心は満ち足りて穏やかだ。
何より重要なのは、こうした変化によって、仕事にもよい影響が表れたことだ。

同上

そして、鎧は、捨てなくても置いといて、
必要な時に、着ればいいのかあ、と。

二者択一でなくていい。

硬い鎧でなくて、
柔らかい鎧、ぬの。ぬののふく。


勇者は、硬い鎧ではなく、
柔らかい心を持っている普通の人。
なのかもしれません。

世の中に魔王がいるとして、
それはきっと、鎧を着た自分で、
その強敵を倒すも、味方にするも、
ぬののふくをきた、普通の自分。

裸の王様にならないように、
自分の好きな服を、着る。


今日もお読みいただきありがとうございます。

きょうはマクドがメンテナンス中で、
早朝にいけず、
ファミマのイートインに行こうとしたら、
まだあいてなくて(朝5時)

そうして見上げた空は、美しく。
マクドでないと、勉強できん!
という鎧は置きました。


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