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優しすぎるのはだめですか


mae3は優しすぎる。

と、仕事で言われる。
昔片思いだった人にも言われた。

「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」

というように、優しいだけが善ではないのも
わかっている。
ときに非情なほどの関わりが、善であること。
中途半端な優しさは、悪であること。
もわかっている。

時と場合、人によるといえばそれまでだけど、
「優しいこと」または「優しすぎる」ことは、
そんなにダメなことですか?と思うこともある

↓を読んで、共感して自分を慰めるだけは、
意味がないので、優しいことの意味を、
自分からできるだけ離しながら考えたい。

違和感や憤りは、新しい行動を生み出す源泉になる。それは紛れもない事実である。しかしながら、怒りから生まれる熱量に任せて行動することの危うさが存在することも、心に留めておかなければならない。

「THE NAMEきみの人生に作戦名を。」
梅田悟司

優しさの反対は、怒り。
といえば強引かもしれない。

恐さ。とも言い換えられる。
恐いほどの熱量と、優しい熱量がきっとある。
出力の仕方の違いとすれば、
違和感や憤りという起点のままいくか、
いちど心の中で咀嚼した起点にするかで、
変わってくる。

ことを起こす原点にあるものは、それだけではない。自分の中に眠っている経験に光を当てて、そこから見出される自分軸から感じるもの。それはきっと、あたたかく、柔らかく、体温がこもったやさしさに近いものなのではないだろうか。より正確に表現するならば「もっとこうであればいいのに」「自分だったらこうするのに」という、静かでありながらも、真っ赤な炎よりも熱量の高い、蒼い炎である。

同上


優しい人は、静かである。
強い人は、動的である。

どちらが善悪、優劣ということはないけれど、
お風呂のお湯が、ぬるい方へ、冷たい方へ
合わせていくように、
体温もまた、熱い方より低い方へ同化する。

お湯はほっといて熱くはならず、
人もまた、勝手には熱くはならず。

自然が荒れ狂うのは一瞬で、
ほぼすべてが、穏やかである。

やさしさは、自然に似ている。

だからこそ、ときに自然をも変える
強烈な熱量で変革していく強さも必要なことも
どこかでは理解はしてたい。
感情は追いつかないけれど。


やさしさの価値に目を向ける
赤い炎から、蒼い炎へ。
沸々と燃えたぎる義憤から、社会や世界に対する価値貢献へ。
こうした活動における源泉と方向性を見出していく中で注目したいのがやさしさである。
現代は、やさしさの価値が大きく目減りしていると感じざるを得ない。

同上

源泉は、マグマのように超高熱。
地上にでると、温泉のように適温になる不思議

土に触れ、地中の水に触れ、空気に触れ、
人が触れられるやさしい温度になる。

激変する世の中で、答えのない世の中で、
マグマのような熱量がますます求められる。
すべてを飲み込み、地形を変え、その土地の
生き物も、生態系を変えるほどの、勢い。

勢いは、やさしさを置いていく。

世界に目をやれば、振りかざされたそれぞれの正義によって国と国が争い、断裂している。自国の利益を優先するような主張が繰り返され、非難合戦が連日報道されている。そんな中で、心温まるような話題があると、「こういうものを求めていた」「やさしい世界」といったコメントがあふれていく。

同上

こうした流れとは別に、日本人の根底には、やさしさに対する否定的な見方があるようにも感じる。
やさしいだけの人は、つまらない。
やさしいだけでは、勝てない。生きていけない。
まじめな人がバカを見る

同上

両方あっていいとおもう。
やさしさと強さを分断することは、
また世界を分断することでもあるから。

ただ、
優しすぎることを否定しすぎると
失うこともある。
強すぎることを否定して失うように。

世界は勝ち負けでもない。

こうした言葉が示すように、やさしく、実直であることが、他人からいいように利用され、結果的に損をするという考えが根強く存在している。相手から出し抜かれないためには、相手を出し抜かなければならない。自分が損をしないように、相手に損をさせることで、自分の身を守る。こうした思想が、現代にも脈々と受け継がれており、残念な気持ちになることも多い。

同上

強いものが勝つ。
生き残るために強くあらねばならない。

そこに温情という温かいぬるさは、いらない?

それでも、できる人たちができることを活かし合うのではなく、不完全な人間同士が、できないことを告白し合い、許し合い、補完し合う世界には、大きな価値があると感じている。

同上


できないことを持ち寄ると、できそこないの人間同士が集まっているという前提が生まれ、チームの寛容性が高まっていく。互いに寛容であることは、誰にとっても「ここは自分の居場所である」という感覚だけでなく、その組織や集団に対して、自分が貢献できることを真剣に考えるきっかけを生む。弱みを開示し合うことによって、誰もが自分にできることを探す力が生まれ、結果的に、勝手に、強みが発動するのである。

同上

弱さが強さに変わる。
強い人より弱い人が仮に多いとしたら。

できないことを認める優しさと、
できないことを言える強さとで、
掛け合わせたらいいのかもしれない。

できる強さよりも、できなくても強いことを。

このような体験から、やさしさとは何かを考えるようになった。そして私なりのひとつの結論として、やさしさの本質とは「受け止める力」ではないかと思うようになった。受け止める力とは、許す力であり、助け合う力であり、人間をあきらめない力である。

同上

甘い話ではないと思っている。
辛い話である。

受け止める強さが、やさしさでもある。
やさしすぎることは、受け止めすぎる弱さで
あり強さでもある。

決めるのは、自分。
やさしすぎることを貫くと決める強さは必要。

やさしさという人間らしい体温をもつ人も
いていいんではないかな。

きょうもお付き合いくださり
ありがとうございます。

そろそろシャワーだけだと冷えるので、
きょうは湯船につかります。



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