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闇と灯り

Apple Store vs 祇園

先日、友人がiPadを買うというので、表参道のアップルストアに付き合った。ちなみに、この手のデジタルものには滅法疎い。とはいえ、二〇一七年の現代に生きているので、スマートフォンで銀行振込もやれば、Googleマップに道案内もしてもらうし、写真や動画を撮ってLINEで友人に送ったりしたかと思えば、送るときにはちゃんとスタンプなんかを使ったりもする。

「ぼくたちがコロナを知らなかったころ」
吉田修一

吉田修一さんもスマホで、LINEで、スタンプ
送るんだ。って当たり前なんだろうけれど、
「偶像」は時に、偏見を生み、
固定化してしまうからなんとももったいない。

小説家やエッセイストにある日常の感度を
しるたびに、親近感と圧倒的な敗北感が、
滲んでみえてたのしい。

と書くと、「なんだ、ちゃんと使いこなしているじゃないか」と思われそうだが、実際は逆で、なぜ自分にそんなことができているのか、まったく分かっていないし、なんとなく、画面に出てくるボタン(?)を押していくと、いつの間にか自分のやりたいことができているのが我ながらすごい、というか、ちょっと怖かったりもする。

同上

いつの間にか自分のやりたいことができている

というのはスマホ操作に限らず、
車の運転、進学した学校先での生活、
海外旅行先でのシャワーの使い勝手など、

当たり前にできていることに
知らぬ間に導かれていることに、
時に怖ささえある。

その怖さは、
ありがたみを忘れること。
疑いなく信じすぎること。
「みんなもきっとそうだ」と幻想を抱くこと。

そのうち、購入する機種とプランが決まり、いよいよ新品のiPadの箱が運ばれてくると、ヨウヘイくんが僕らの目の前で、スススーッと、まるでベテランソムリエがワインボトルでも開けるような手際の良さで、箱の包装をカッターナイフで開けたかと思うと、「おめでとうございまーす!さあ、フタはお客さまご自身で開けてください!」と声がかけられ、その声を合図に、近くにいたスタッフたちまでが集まってきて、「おめでとうございまーす!」と拍手喝采となる。

同上

「自分だけでなく、みんなもそうだから」
というのはまるで、

赤信号 みんなで渡れば 怖くない

のような、集団心理が働く。

けど悪い気はしないので、喜んでる自分と、
冷静になると、うわっ!ってなる怖さとが
同居する不思議な気分を味わうことになる。

まるで誕生日会か、ホストクラブでシャンパンでも注文したような儀式に、さすがに友人も最初は戸惑っていたが、新品のiPadを前に「おめでとう」と祝福されて嫌な気がするはずもない。
「ありがとうございまーす」とスタッフたちの拍手に応えてしまえば、あとはもうフタを開ける友人の表情の、そのなんとも楽しげなこと

同上

新品を買う時の、なんともいえない、
自分さえも新品になったような感覚は、
おとなになっても病みつきになる。

その感覚を買うために、高いお金を払ってる
ような気さえする。

その上、赤の他人が、その瞬間を
祝福しているなんて、1人ではないこの
喜びをわかちあえて、なんともまた
嬉しい気持ちになるんだろう。

客観的にみれば、怪しい光景でもあるんだけど

体験を買う、モノよりコト、なんていうけれど
さらにはトキを買うなんてことも言われるけど

本当に買っているのは、矛盾だったりもする。

病みつきになるといえば、同じ時期、このアップルストアとはある意味でまったく正反対の楽しい体験もあった。場所は、冬の京都。例年になくあたたかな目で、冬日を浴びた鴨川は穏やかに流れ、川辺では人々がのんびりと時間を過ごしていた。この夜、向かったのが祇園のとあるお茶屋さん。日が暮れて、オレンジ色の街灯にぼんやりと照らし出された真新しい石畳を歩いていると、なんとも豊かな旅情にかられる。

同上


オレンジ色って、矛盾を晴らしてくれる。
いや、矛盾したままでいいんだよ、と
思わせてくれるのは、夕日の大きさと儚さを
秘めた感じをくれるからかもしれない。

旅ではなく、旅情をくれるのはいつも、
人と自然。


店はこの花見小路通にあり、ずらりと並んだ白漆喰に板塀が続く中、入り口の格子戸をさらさらと開けると、目の前に小さな闇が現れる。
闇と言っても、いわゆる玄関先のことなのだが、煌々と明かりを灯しているわけではないので、ついこんな表現になってしまう。ただ、この小さな闇こそが、その先にある華やかな座敷への期待を高めてくれる。

同上

闇があるから、灯りがある。
灯りがあるから、闇が映える。

どちらかではたぶん、期待は高まらなくて、
どちらも必要なんだと思う。


座敷には、とうぜん畳が敷かれている。そして畳には黒い畳縁がある。見ようによっては、この黒い畳縁は、僕ら客と舞妓さんや芸妓さんたちを隔てているように見える。境界線を引くということに、僕は元来あまり共感しない方だが、このお茶屋さんが一見の客を入れないということと同じ理由で、そうしなければ守れない世界、もしくはそういう面倒なルールの先だからこそ見ることができる世界というものがあってもよいのではないかとも思う。

同上

線をひかれたくないけど、
線を引くことでよいことも、あるんだなあ。

と、受け入れられる心のゆとりは、
旅情ゆえの豊かな心理状態のときと場所。


京都のお茶屋さんに、そうたびたび通うことはできない。ただ、この座敷で過ごした時間は、一生ものの思い出として残る。それはこの店で過ごした時間のなかに、実はここでの時間だけではなく、舞妓さんや芸妓さんが客を喜ばせるために踊りや三味線の稽古に費やした時間も含まれるからだ。と考えると、少し大げさかもしれないが、誰かと出会うということは、それまでに過ごしてきた自分の時間とその誰かの時間が、そこで一緒になるという、とても壮大なことなのかもしれない。そう思えば、これからまた誰かと出会うことが、なんだかますます楽しみになってくる。

同上

壮大だなあ。
Apple Storeと、祇園からくる
壮大さを壮大にみえる吉田修一さんが
壮大だ。

今日もお付き合いくださり
ありがとうございます

そして壮大なことほど、
身近ななかの小さなものにあることを
教えてくれる。

橋のうえのトリと朝焼け。

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