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「因縁」の対決 vs 自分

「因縁」というと、「前世からの因縁」とか、「親の因果が子に祟り」といったイメージや、「因縁の対決」「ライバルとの因縁」というように、人間関係的なものがイメージされるかもしれませんが、そういったものに限らず、僕らの日常のすべてを決定しているさまざまな原因と結果の網の目のことを、仏教では「因縁」として捉えます。

「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」名越康文さん


因縁って、あんまりいいイメージないけれど、
それって、「人間関係」を指すから、
なんかこう、ネガティブになりがちなのかな。

コト、で捉えたら。
それが、日常の全てを決定しているなんて、
言われたら。

因縁を冷静に眺められそうです。

「因」というのは自分の中にある原因(怒りや、相手を操作したいという欲求もここに含まれます)であり、
「縁」というのは、自分の外側にある原因(人との出会いや、運命的な事柄)で、両者を合わせて「因縁」と呼ぶわけです。

同上


因と、縁を分けてみる。
自分の内と、自分の外に分けてみる。
うん、なるほど、
分けると解る、分解術はここでも使えます。

「相手を操作したい欲求」
なんて言われたらドキッとしちゃう。
それは、自分の外に向けられているようで、
自分の内の因なんですね。
(だから、ドキッとする)

そしてそれは、
コントローラブルな、影響の輪の中に。

そして縁は、
アンコントローラブルな、関心の輪の中に。

この一見真逆なふたつをくっつけるなんて、
つくづく、昔の漢字を考えた人は、
粋なことするなあ、何千年と続く普遍の
真理をついてくるよなあ、と感心しちゃいます

例えば「癖」「習慣」といったものも、「因縁」として捉えることが可能です。
ぼくらは目の前で起きる出来事に対してその都度、自分で判断していると信じています。
しかし現実には僕らは
判断や行動の多くは、癖や習慣に支配されています。

同上

癖や習慣を、因縁で捉えるのか!!
と目から鱗シリーズです。

しかも、支配されてるなんて・・
うん。まあ、たしかにそうだ。

そしてそれは、目の前の出来事に、
無意識に判断というか、反応する瞬間にこそ
滲み出ている。滲み出ちゃう。

そしてそれは、支配からの解放宣言できる。
因縁という自覚。

つまり、本当の意味での
「自由」は,因縁に縛られる僕らにはないということです。
そして、僕らは滅多に、自分を縛っている因縁に気づくということはありません。

同上


いやあもう、ほんと、そうなんすよ。
そうなんすよ。。

不自由を、人に縛られてるせいにしていて、
その方が楽なんですよね。


気づかないんですよね。
自分で自由を縛っていることに。

それは、癖と習慣という、
コントローラブルな自分のうちに
気づくことから。

これは非常に恐ろしいことではありますが、
他人の言動を見ていると、
癖や習慣といったものがその人の人生を
強く縛っていることを実感できるのではないかと思います。

同上


はい、そうです。
人を見てると、よく思うんです。

あーいまのそれ、さあ、もうちょい、
こうリアクションしたらもっと素敵な
あなたになるのに!

だなんて。

これを自分に向けて、
あーいまのそれ、さあ、もうちょい、
こうリアクションしたらもっと素敵で
自由なわたしになれるのに!

その先に、素敵な縁を。

今日もお読みいただきありがとうございます

疲れてるのに、自分の胸に突き刺す
お話を書いてしまいました笑

こうして書いてまた、自分を慰めます。

自分が囚われている癖や習慣に気づくということは、僕らが自意識の制約から逃れ出る、大きな一歩となるでしょう。

同上


写真は好きな避雷針です。
雷を自分で引きつけている自覚。
そうして、誰かの役に立ってるという誤解。

自分からの飛来を。

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