「因縁」の対決 vs 自分
因と、縁を分けてみる。
自分の内と、自分の外に分けてみる。
うん、なるほど、
分けると解る、分解術はここでも使えます。
「相手を操作したい欲求」
なんて言われたらドキッとしちゃう。
それは、自分の外に向けられているようで、
自分の内の因なんですね。
(だから、ドキッとする)
そしてそれは、
コントローラブルな、影響の輪の中に。
そして縁は、
アンコントローラブルな、関心の輪の中に。
この一見真逆なふたつをくっつけるなんて、
つくづく、昔の漢字を考えた人は、
粋なことするなあ、何千年と続く普遍の
真理をついてくるよなあ、と感心しちゃいます
癖や習慣を、因縁で捉えるのか!!
と目から鱗シリーズです。
しかも、支配されてるなんて・・
うん。まあ、たしかにそうだ。
そしてそれは、目の前の出来事に、
無意識に判断というか、反応する瞬間にこそ
滲み出ている。滲み出ちゃう。
そしてそれは、支配からの解放宣言できる。
因縁という自覚。
いやあもう、ほんと、そうなんすよ。
そうなんすよ。。
不自由を、人に縛られてるせいにしていて、
その方が楽なんですよね。
気づかないんですよね。
自分で自由を縛っていることに。
それは、癖と習慣という、
コントローラブルな自分のうちに
気づくことから。
はい、そうです。
人を見てると、よく思うんです。
あーいまのそれ、さあ、もうちょい、
こうリアクションしたらもっと素敵な
あなたになるのに!
だなんて。
これを自分に向けて、
あーいまのそれ、さあ、もうちょい、
こうリアクションしたらもっと素敵で
自由なわたしになれるのに!
その先に、素敵な縁を。
今日もお読みいただきありがとうございます
疲れてるのに、自分の胸に突き刺す
お話を書いてしまいました笑
こうして書いてまた、自分を慰めます。
写真は好きな避雷針です。
雷を自分で引きつけている自覚。
そうして、誰かの役に立ってるという誤解。
自分からの飛来を。