沖縄県 8時間観光
沖縄県へ行ってきた。人生初の沖縄県で、南の島というのも初めてだ。
今回はクルーズ旅行の寄港地のひとつとしての観光だから滞在時間が非常に短い。船が出航するまで10時間しかない。乗下船の手続きを考えたらたったの8時間くらいで、もし乗り遅れたら飛行機で帰るハメになる。必死に観光プランを練った。
ギリギリまでプランを練ってみたものの、沖縄は観るべき場所が多すぎる。とても8時間で満足できるコースを設定できそうもない。もう自力で計画立てるのは諦めて現地のバスツアーに参加することにした。
調べてみればクルーズ会社が提携している寄港地ツアーがいくつもあったので、はじめての沖縄に向いていそうなショートバスツアーに参加することにした。ビーチなどは今回は見送ってちょっと真面目な歴史探索コースだ。
朝7時に船内のホールに集合し、ぞろぞろと下船する。日本人でも那覇港の入国審査を通過するのにパスポートが必要だった。そういえばクルーズ船は外国扱いだ。
はじめての沖縄は、ものすごく湿度が高くて蒸し暑かった。降り立った時点でなんとなく南国の匂いがする気がした。海がクリアなエメラルドグリーン色なのを見て感動していると、港湾職員の方が「めんそーれー」と挨拶をしてくれた。
指定のバスに乗り込むとほぼ満席だった。まだ早朝なのに、すでに車内のエアコンが嬉しい暑さになっている。
これから4時間くらいのツアー観光だ。バスツアーにはもちろんガイドの添乗員さんがついてくれる。彼女の話す沖縄方言の例文や軽いジョークなどを聞きながらツアーがスタートした。
道路わきに関東では見ない植物がたくさん生えている。トゲトゲした大きな実が付いていて南国だぁと思った。
一般住宅が多い地域に入ると車窓から見える家々の形が独特で、コンクリート造りの家の屋根の上に金属タンクが乗っているタイプが多かった。強烈な台風が多い沖縄では高額でもコンクリートの家を建てることが多いという添乗員さんの解説があった。屋根のタンクは断水時のための貯水槽だという。自然災害が日常と隣り合わせなのが見て取れた。
沖縄の家は赤い屋根瓦の家で、風が通り抜けるように広く窓が開いている開放的な家が一般的なのだと思っていた。たしか北野武の映画で見た家がそうだったから。そういう家は那覇近郊ではほとんど見かけなかった。
シーサーはイメージ通り、多くの家に飾ってあった。
見晴らしの良い「天国に近い場所」という意味のニライカナイ橋を通過し、平和祈念公園へ向かった。そのあたりから添乗員さんの歴史解説が悲壮感を帯び始める。
やはり今でも沖縄の人々にとって、米軍基地や第二次世界大戦のことは大きな問題としてはっきりと認識されていることを改めて理解した。当然ながら戦争当時を知る年齢ではない添乗員さん、むしろ僕より若いくらいの彼女から悲惨な沖縄の歴史を聞く。そこには学校や研修などで教わった話だけではなく、親族からの伝聞も含まれていた。
彼女が祖父母から聞いた戦時の話がそのまま現代の基地問題へと地続きではっきり繋がっている。そういう土地で生まれ育つと、関東近郊で生まれ育った僕などとは明らかに認識が異なってくるのだろう。沖縄の数多くの問題をまぎれもない自分の事として受け取り、将来への何らかの責任をも背負いつつ歴史を語っているように感じた。
真摯な彼女と比べて、お気楽な観光でこの場にいる自分を少し恥じてしまった。
ビーチに行かずに歴史探訪を選んだのは我々バス乗客なのだから、ツアー中かなりの時間を割いて語られる悲話も無残な戦史もしっかり受け止めなければいけない。沖縄の歴史を知るってそういう事なのだった。
バス内に漂う悲壮感は平和祈念公園でピークを迎えた。平和祈念公園ではバスを降りて見て回ることができたので、まず深呼吸するように外の空気を吸った。夏そのものを吸い込んでむせかえりそうになった。
時間は正午近く。エアコンの効いた車内ではない、夏の沖縄をここで体験することになる。
平和祈念公園内は広く、駐車場から各施設まで歩く距離もかなりある。しかも3歩も歩けば全身から汗が噴き出す暑さだった。
公園内はアメリカ人家族の姿もかなり多く見えた。訪れている人の半数くらいはアメリカ人だったんじゃないかと思う。彼らは戦没者の遺族らしく、戦没者名が記されたモニュメントの前でひざまずいたり幼い子供に何か話したりしていた。
この島で殺し合っていた者たちの子孫同士、ここで顔を合わせるのって今でもなんだか気まずいなぁ、と語っている老夫婦がいた。そうかもなと思うが、個人的にはそうは感じなかった。僕だって日本人である以上まったくの他人事ではないのだが、当事者感はない。逆に言うとどちらの国の人でも当事者感を持つ人々のなかには、戦後80年やそこらではまだ恨みを持つ人もいるだろう。僕と彼らの間にはかなりの温度差がある。こうして現地に来る事がなければ他人事のままだっただろう。
雨に濡れたのかと思うくらい汗で服を濡らしながら公園内を見て回る。ふと海のほうを見ると切り立った崖が見えた。古いニュースフイルムで見た事がある、民間人が飛び降りたというあの崖ですかと聞くと、このあたりのどの崖も似たような事があったと言われた。無神経な質問をしてしまったかと聞いてから後悔した。辺りの美しい岸壁を見回して非常にツラい気持ちになった。そろそろバスに戻る時間だ。
とにかく日光が真っすぐ刺さりすぎて帽子でも防御力が足りない。日傘を買うべきだった。バスに戻っても暑い。こんなに汗をかくなら着替えが必要だったなと思う。
平和祈念公園を出ると、ではここからは気持ちを切り替えていきましょう、と添乗員さんが言った。ありがたい。悲惨な歴史を知るのも大事なことだが、僕は悲痛な気持ちになるためだけに沖縄に来たわけではない。
とは言えバスツアーも残りは国際通りを通りすぎつつ眺めるくらいなので、僕は途中下車を申し出て国際通りの端っこで降ろしてもらうことにした。まだ元気のある数名が一緒に降りると言い、疲れ切った他の乗客はそのまま那覇港まで乗っていく。
降りる人たちは国際通りを通り抜けて港まで3キロほど歩くことになる。大丈夫、時間はまだある。
バスを降りるとさっきまでの悲壮感は吹き飛び、そこはヤシの木が並ぶ南国の繁華街だった。
腹ペコだったので手近なタコス屋に入った。塩タコスというのがあるらしいので食べてみた。たいへんなイケメンが店を切り盛りしていて大繁盛だ。
発汗して塩分を欲していたからか、塩タコスは本当に美味しかった。3個くらい追加して食べたかったくらいだ。タコライスも注文したが、僕はタコライスより塩タコスが好みだった。
さらにおかしな色のアイスクリームを買ってみた。原色まみれのアイスを食べながら原宿と上野アメ横が同時に存在しているのが国際通りかな、と考えていた。おじさんにはちょっとギラギラしすぎている。日差しもだ。
大通りにはアーケードがないので、直で日光を浴びながら国際通りの端から端まで歩くのはかなりキツかった。多国籍な観光客で混雑もしている。お土産を買い歩きながら港へ向かった。
国際通りを抜けて港へ向かう間に足元がふらついた。これは熱中症一歩手前だ。どこかで涼んでいかないと船までたどり着けなさそうだ。それに出航までまだ2時間くらいある。
ふと横を見ると、謎の立派な寺のような博物館のような門があって「福州園」と書いてあった。由緒ある中華庭園らしい。ここで涼んでいくことにした。
門の中は古いカンフー映画の中みたいだった。僕は沖縄にいるんではなかったか?暑くてぼんやりしながら中を探索する。
中は想像の3倍くらい広く、そしてちゃんと作りこまれた庭園だった。これは写真映えするぞと思っていると、関西の言葉を話すコスプレイヤーの一団が撮影しまくっていた。園内での撮影は申し出れば許可されるらしい。僕は何も知らずにふらっと立ち寄っただけだが、関西からコスプレ撮影旅行に来るくらい有名な場所なのかもしれない。
めちゃくちゃに暑そうなコスプレをしていても、皆さん元気いっぱいに楽しんでいる様子だった。彼らの邪魔にならないように退散した。
出航30分前に船に戻り、涼しいプールサイドでアイスコーヒーを飲んだ。精神と肉体の疲労が回復していく。
沖縄、8時間ではぜんぜん足りない。
はじめての沖縄の印象は、全体的に鎮魂の島だと感じた。しかしそれは僕が限られた時間内にそういう場所を多く見たからであって、国際通りとビーチしか行かなければその印象は大きく変わっただろう。どちらの面も沖縄であり、どちらかだけに偏ってはいけない気がする。沖縄が何を抱えているか知るのは大切なことだ。それと同様に観光客が繁華街やビーチで楽しく過ごせるのも大切なことだろう。
街は多国籍な観光客でにぎわい、大汗かきながらコスプレイヤー達が撮影を楽しみ、戦没者遺族たちが亡き人のこと、未来の平和のことを想う。そういう美しい島だった。
沖縄の未来が明るいものであるように願う。