平井駅高架下の壁画のはなし
東に進む総武線が亀戸を出て線路が大きく左に曲がるあたりから、車窓に見える建物が低くなってくる。亀戸中央公園の木々を抜け旧中川の土手に差し掛かると、ああ帰ってきたな、という感じがする。平井駅で降りる人は全く知らない人でもなんとなく仲間のような気がするし、平井を知っている人に会うと嬉しくなる。
先日たまたま知り合った方とも、お互い平井の出身ということで話が弾んだ。この間久しぶりに帰ったら、駅の雰囲気が変わっていて驚きました、という。ひとつしかない改札のコンコース周りに店舗群がオープンして、以前と比べればだいぶ明るく賑やかになったのは2018年のことである。そんな話をするうちに、そういえば、と見せてくれた写真には素朴な壁画が写っている。
そう、壁画があった。
駅前の目抜き通りと言っていい平井駅通りが、総武線の高架をくぐるところ、通称ガード下。駅のコンコースの裏側に、いまは白く塗りこめられた壁がある。塗り込められた、と思うのはその前を知っているからで、ここに5枚の壁画があったのだ。
(壁画が失われる少し前、2017年筆者撮影。まさかなくなると思っていなかったのでこれしか写真を撮っていなかった。中央3枚目の壁画は出入り口となっておりこの時点で既に撤去されている。)
歴史を紐解くと、平井駅の開業は1899年。当時の地名は東京府南葛飾郡平井村。文字通り暴れ川であった荒川を治めるために人工の荒川放水路が作られたのが1913-1930年だから、まだ平井の町域が現在の形になっていない頃である。荒川放水路の完成後も水害にはたびたび悩まされており、1949年のキティ台風の際の写真には、水没した平井駅の周りをボートで避難する人々が記録されている。高架化されたのは1970年前後のようだ。壁画が描かれたのも同じ頃だろうか。
一番右の壁画は「旧平井駅」。高架化する前の素朴な木造の駅舎、その向こうには同じく木造の跨線橋と、2本の線路も描かれている。
2枚目は「風鈴造り」。吹きガラスの風鈴をつくる2人の職人。
(2014年撮影、田中悦子さん提供。以降同じ)
3枚目は「平井の渡し」。現在の旧中川をわたる船渡し場だ。
4枚目は「平井聖天」。我が家の菩提寺でもある平井の名刹。平井駅と同じ頃に水害対策のため嵩上げされていて、描かれているのは嵩上げ前のお堂である。
そして5枚目が「金魚せり」。水に浮かんだ箱の中に金魚が泳ぎ、奥には買い手と思しき人が並んでいる。手前には大きな金魚がコラージュされている。
平井駅の壁画に描かれているのはいずれも平井のかつての名物であるが、実際の光景を私自身は見たことがない。イメージしようとしたとき、思い浮かぶのはこの壁画である。今回の連載の「金魚」というテーマを聞いた時も、真っ先に思い出したのはこの壁画であった。
寂れたペンキ絵の引き合いに出すのは失礼であるが、1920年代のメキシコで始まった「メキシコ壁画運動」というものがある。革命後に新しい国家をまとめる中で、字が読めないような国民に対しても歴史や風俗をわかりやすく伝える役割があったという。公の場の壁画にはそのような効果がある。現代日本人の識字率は100%に近いとはいえ、郷土史をわざわざ読むような機会は多くないし、見たことのない光景をテキストから思い描くのは至難の業である。
平井駅の壁画は、どこまで明確に意図されたか定かでないが、放っておいたら薄れてしまう町の経歴を、文字に頼らずに人々の記憶に刷り込んできたと言えるだろう。描かれたのが1970年頃だとすれば、50年近く高架下を行き交う人と車を眺めていたわけだ。アイデンティティが強くない町に少なからぬ影響を与えたのではないだろうか。お互いに知らない人や、違う時代を生きた人が、同じ風景を見て、同じ町に愛着を持っていたりする。
いま、平井駅は姿を変え、壁画もなくなり、今度は北口が再開発により大きく姿を変えている。私の平井のイメージを形作るものが次々と失われていることは残念だが、記憶の中では、いまの平井と、かつての平井がパラレルに存在しているようである。平井への愛着が薄れたかというとそうでもない。平井駅の改札を出るとき、壁の向こうの薄暗い高架下にはまだあの金魚がいるような気がしてならないのである。金魚の記憶もいまだに平井を泳いでいるのかもしれない。
参考)
・江戸川区『江戸川区史』第三巻、江戸川区、1976
・かつての平井駅高架下の様子(個人ブログ)
http://blog.livedoor.jp/tantan234/archives/30118536.html
https://townphoto.net/tokyo/hirai2.html
文責:内海皓平