ピアノだけが残った

今日偶然祖父の話をする機会がありました。祖父は徳島から1人大阪にやってきて事業を起こし、当時「専売公社」という専売特許を持つことができ、酒、塩、米、を販売する権利を持ってました。

そして事業を起こし戦前に大成功をおさめました。大阪圏の方ならわかると思いますが大阪大学のある待兼山、と言う丘陵の一帯に広大な土地を持ち、そこには学校やら森やら沢山のものが建ってました。今の米価でわざわざ妹が調べたところ50億円の資産があったそうです。
「馬を飼おうか」と言う様なお屋敷の暮らしぶりでした。

祖父は寝ずに働いて頑張った人なので偉いなあと思いますが。時代というのは恐ろしいもので戦後の「新円切り替え」と言う政策が行われ、
「お金は新円になるので銀行に預けてまたおろして下さーい」と言われ国民はみんなお金を預けたそうです。
そしておろす段になって「10万円だけね」と言う事になり、祖父は資金繰りが悪化。
おまけに土地の広さに応じて重税をかける、という政策も重なり祖父はすべての土地と屋敷を売り払い何もかも無くしました。
ちょうど今のライブハウスみたいな進駐軍相手のキャバレーをピアノを入れて始めたのですが進駐軍も引き上げ借金だけが残りました。

そしてそのままある日玄関で倒れ亡くなりました。

そのキャバレーのピアノと進駐軍の流れで私にピアノと洋楽だけが伝わったみたいです。祖父には会ったことはありません。

「なんだか映画みたいだね」と言われてなんかそうかも。と思いました。

今も時代が突然変わり同じ思いをしてる人がいるのだろうな、と思います。

本来なら父は長男で私は長子なので「世が世なら」的な話になるのかも知れませんが、
器のないものが大金を持つとろくなことがないので残ったのがピアノを弾くことだけでよかったです。絶対変なお金持ちの息子と政略結婚させられて不毛な日を送ってたと思いますます(ここは妄想)

この新円切り替えの政策で「大金持ち」と「庶民」の差はかなり無くなったとか。
(財閥以外)

かなり前に祖父の蓄音機用のレコードを200枚くらい見つけましたがガラスの様に重く大きかったです。祖父の持ち物で見たのは象牙の鍵盤で出来たピアノとそのレコードだけです。

私が歌ってることやレコードを手にした事を喜んでくれたらいいなと思います。



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