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内宮参拝と旅の終わり

長い旅だったと思う。交通機関も未発達な時代。歩いて歩いて歩き続けて、そうして最後にたどり着いたのが伊勢だった。

崇神すじん天皇の時代(3〜4世紀頃?)。宮中で祀られているアマテラスの威光が強すぎるため、別の場所に移すことが提案された。

何人かの皇女が様々な地でアマテラスを祀ったが、なかなかしっくりこない。そのお役目を最後に担ったのが、倭姫命やまとひめのみことだった。倭姫命はアマテラスの依り代である鏡を携えて大和(奈良県)、近江(滋賀県)、美濃(岐阜県)と各地を放浪。そんな長い旅路の果てに、とうとう伊勢(三重県)に落ち着いた。まさに人生をかけた大仕事だった。

倭姫宮やまとひめのみや内宮ないくう別宮べつぐう

そんな倭姫命を祀っている神社がある。内宮の別宮である倭姫宮だ。外宮を出て少し車を走らせたところの、倉田山という丘に鎮座している。

倭姫宮の近くには美術館や資料館があり、道路を挟んで大学もある。おかげで周辺は綺麗に開かれて整備されていた。

倭姫宮、参道、葉っぱ落ちてないことに驚く

参拝客は自分を含めてたった二人しかいなかった。歩道には大勢の学生が歩いているが、鳥居をくぐると人の声も車の音も聞こえなくなった。

ごちゃっと茂っている森に静謐で上品な雰囲気を感じるのは、倭姫命が祀られているという先入観のためかもしれない。しかしこれだけ木々が鬱蒼としていながら、参道に葉っぱ一枚落ちていない。それだけでも、ここが大切にされている特別な場所だとわかる。

別宮の社殿にも、遷宮用の同サイズの土地が隣接している

月読宮つきよみのみや内宮ないくう別宮べつぐう

続いて向かったのは月読宮つきよみのみや。外宮近くにある月夜見宮と同じく、月読命ツクヨミノミコトを祀っている。名前が似ているので少しややこしい。

鳥居の先が暗い森になっているのが、夜を司る月読命らしくておもしろい。ここはたぶん、真夏でも涼しいと思う。

参道を進むと四つの宮が現れた。祀られているのは月読命、月読命の荒御魂あらみたま(荒ぶっているときの月読命)、イザナギノミコト、イザナミノミコト。

参拝中に急に雨が強くなったので、早めに切り上げて内宮に向かった。

猿田彦神社

内宮駐車場から近いところにあるのは猿田彦神社。猿田彦は前記事でも紹介した、神様たちの道案内をつとめた謎多き神様だ。

猿田彦の不思議な点はいくつかある。唐突に天上の神々の前に現れて、神々を困惑させたこと(目的は道案内の申し出だった)。神々を地上に導くと、さっさと伊勢に帰っていったこと。その後、海で漁をしていたら貝に挟まれて死んだということ。

神話のなかで死が描かれている神は少なくない。ただ猿田彦に関してはあっけないというか、そう描写された意図がいまいちわからないので、その末路にこちらも困惑させられる。

手水舎にはなぜか大量のステッカーが貼られている。それを咎めるような看板張り紙もない。お寺の仁王門にお札が貼られているのは見かけるが、手水舎がこうなっているのは初めて見た。

猿田彦はやはりどこかノリが違う。手水舎に関して言えば完全にライブハウス、もしくはアメリカンスタイルだ。

ちなみに境内には、アメノウズメを祀った佐瑠女さるめ神社がある。アメノウズメは、天岩戸に引きこもってしまったアマテラスを誘い出すために踊りまくった神様。道案内を申し出た猿田彦に最初に声をかけたのは彼女で、猿田彦が伊勢に帰るときに付き添いをしたのも彼女だ。

猿田彦神社を出たら、そのまま歩いて内宮に向かう。

皇大神宮こうたいじんぐう内宮ないくう

内宮鳥居のあたりで、本降りとなる。底がすり減った靴のため、石段や宇治橋の木がつるつるとよく滑り、何度も転びそうになった。

五十鈴川で禊、泥水が流れ込んでいる

外宮が森のなかを歩いているようだったのに対して、内宮は開けた広い参道をまっすぐ歩く。人は大勢いるが、大雨と単調な玉砂利の足音だけが響いて心がしんと落ち着いてくる。

ふと外宮も別宮も、拝殿前の作りが同じになっていたことに気づいた。いずれも本坪鈴ほんつぼすず(ガラガラの紐)がなく、賽銭箱まえの空間は白い大きめの玉砂利が敷き詰められている。他の参拝客がいないと、その部分に足を踏み入れていいのか迷う。しかし入らなければ賽銭箱に近づけないので、恐る恐る入る形になる。

最初は本坪鈴がないのは、混雑を緩和させるためだと考えていた。しかし蝉時雨のように重なる玉砂利の音を聞いているうちに、「白い玉砂利を踏んだ時の音に、本坪鈴の役割を持たせているのではないか」という考えが浮かんできた。

玉砂利を歩くジャッジャッという音で心を落ち着かせる。同時にその音が神様に来訪を告げる音となるわけだ。

正宮前、写真はここまで

正宮前に着く。この日いちばんの強さの雨が降る。人は多いが、普段と比べればかなり少ない方だと思う。

参拝を終えてから、おかげ横丁でお土産を買った。時間には余裕があるが、余裕を持って帰りたい。道路が空いていたので、休憩することなく一気に静岡まで戻った。


余談。倭姫宮の創建は大正十二年と新しい。近くに倭姫命のものと推定される墓は昔からあったらしいが、正式に祀られるまでにはずいぶんと時間がかかっている。そんな彼女の長い旅路を思うと、自ずと想像が膨らんでしまう。

そもそもの倭姫命と天照大神の旅は、なんと40年にも及んでいる。それだけの時間をともにすれば、立場を越えた友情が芽生えていても不思議はない。終わりの見えない不安な道中、他愛のない話で笑い合ったり、些細なことで喧嘩をしたり、景色がぱっと華やぐような瞬間もたくさんあったのかもしれない。いやいやそこは人と神。「失礼なきよう、礼節を重んじた間柄デシタヨ」と怒られてしまうだろうか。

内宮の別宮という形ではあるが、倭姫命はおよそ2000年の歳月を経て、旅の終わりの地で天照大神と一緒に祀られることになった。一言目、二人(二柱)はどんな話をしたのだろう。 

おわり

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