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無難に話そうと思えば思うほど、不器用になった
歳を重ねるほど、人との会話で気を遣うことが多くなった。
自分はそんな気なくても、相手が気にしていることを言ってしまったかもしれない。今表情曇ったんじゃないかな。話すタイミングが被ってしまった。
そんなことをいちいち気にしてしまう。
そして、そんなことを考えれば考えるほど不器用になっていく。
学生のときは、あまりそういうことを気にしていなかった。むしろ、いつも周りに人がいて、冗談いったり、先生の悪口をいったり、周りの友達を笑わせることだってできた。
いつの間にかトラウマが増えてしまって、自分の発言の正解・不正解を探しながら話すようになってしまった。もしかしたら、昔も無意識に人を傷つけてきたのかもしれない。
不器用に話すと相手にも伝わってしまうと思う。相手も、この人不安なんだな、なんか気を遣うな、という気になって、会話の探り合いみたいになっていく。だから、また不器用になっていく。
相手に不愉快な思いをさせたくない。嫌われたくない。と思いながら話すと結局上手くいかない。わかってるのに話し出すと焦ってくる自分がいる。
でも、
でも、そうしないと話せない相手ってどうなんだろう。自分にとって必要な人なのだろうか。その相手は自分の中で何割を占める存在なんだろうか。もしくは相手にとって自分は何割の存在なんだろう。
そう考えると、すごくあっけなくなった。そんな無理しなくてもいいかも。相手にとってわたしはそんな大きな存在じゃないだろう。なのに、わたしはうぬぼれていたのかもしれない。わたしの一言一句が相手にとって深い影響を与えるとも思っていたのかもしれない。それほど自分は偉大な存在であるわけがない。それなのに、どうしてこんなに探りながら話していたんだろう。
わたしは人の悪口陰口のはけ口になることが多い。あまり人に干渉しすぎないし、相手にとったら愚痴をいっても害がない存在なんだと思う。「聞いてくれてありがとう」って言われても、本当はしんどい。
そして、そのせいで色んな人の裏の顔を見すぎてしまった。そしてそれを吹き込まれると、わたしもこの人に同じことをしてはいけない、という記憶だけが残っていく。それがわたしの言動行動を狭めてきたのだろう。
正直、愚痴を聞いているときも「わたしはそこでムカつかないな」とか「あなたにも原因があるような…」と思うことが多々あった。それなのに相手の言葉に縛られて、「それは腹が立つことなのか」とか「それは良くて、あれはダメなことなんだ」と、自分の基準が悪い方にアップデートされていっていた。そして、それがわたしを不器用にさせていっていた。
本来のわたしにとって嬉しいこと嫌なことのポイントは、もしかしたら日本中で統計を取るとマイノリティなのかもしれない。わたしの感覚は人と変わっているのかもしれない。でも、この感覚に正解も不正解もないのだろう。乱暴な言葉遣いでなければ、TPOにあった発言ができているのなら、それ以上に気を遣う必要は本来ないのだと思う。
わたしはいつも、「自分が間違っているのかもしれない。」と、まず自分を疑ってしまう癖がある。そのせいでここまでこじれてしまった。
わたしがわたしらしくいて、それをうざい面倒くさいと思う人はわたしにとって必要のない人だろう。その人のために無理をする必要はあるのか。
ふと、そういうことを考えた。誰のために生きているんだろう。誰のために気を遣っているのだろう。
「それができるのが大人なんだよ。」
昔からこの言葉が大嫌いだった。大人になった今、その言葉が心底嫌いだと言える大人であり続けたいと思う。