ないようで、ある
薄情なもので、あまり亡くなったという実感が湧かなかった。
実感が湧かないというよりも、感情の動きが少なかったと表現した方が適切だと思う。
「仏の教えの世界で最も大切な言葉で『色即是空 空即是色』というものがあります」
葬儀を終え、祭壇に手を合わせた僧侶が穏やかな表情で列席者に振り返った。
「ある有名なお坊様が、この言葉を『あるけどない ないけどある』と訳しました」
「この世のものは、いつか全て消えて無くなる。けれども、確実に『ある』」
僧侶は袖を正しながら最後に言った。
「ないけどある。本日をもって故人の存在は皆様の心に永遠に残ります」
***
昨年の暮れ、祖父が逝った。
定食屋を営んでいた祖父は、身体の衰えから10年程前に店を畳む決意をし、以降は祖母と二人で隠居生活を送っていた。
引退から数年した頃、同じ言動を何度も繰り返すようになり、気付いた頃には認知症がある程度まで進行してしまっていた。
親から「様子がおかしいから見に行け」と言われ顔を出した時、祖父から「ご無沙汰しております」と笑顔で言われ、もう孫も忘れかけているのかとひどく落ち込んだ覚えがある。
その後も認知症の進行は止まることなく進み、次第に話が嚙み合わなくなっていった。
同時に身体も衰えていき、祖父は特別養護老人ホームに入ることとなった。新型コロナウイルスの影響で面会は許されず数年が経つ。
3年前の年末に帰省した際の、一言も話さずただぼうっとどこかを見つめている祖父が僕の中の最後の記憶だった。
「あんた、おじいさんの点滴が取れたで。覚悟しときゃあよ。電話出れるようにしとかなあかんよ、あんた」
母は電話口で大声で言った。誤嚥性肺炎で入院を繰り返していた祖父は、もう治療の施しようがないとのことで病院を出されることになったそうだ。そんないきなり逝かないでしょ、という僕の返事を聞いて母の声量はもう一段階大きくなった。
「何言っとんの、たわけ。もって数日やで。明日見に行って来やあ。もう生きとるうちに会えんかもしれんよ」
祖父が入った施設は「看取り」の際には面会禁止のルールも緩和されるとのことで、親族のみ面会を許された。
幸運なことに仕事の都合がついた僕は、亡くなる前日に祖父に会うことができた。
個室のドアを開けると、元気な頃と比較すると別人のようになってしまった祖父が横になっていた。痩せこけた頬、半開きの口、点滴で浮腫んで冷たくなってしまった手。
「おじいちゃん、来たよ」
そう言おうとして閉口した。一目見ただけで確信したからだ。「もう、だめだ」と。
布団が大きく盛り上がっていたので、「これは何か」と介護士に訊ねた。介護士によると段々と脚が折り畳まれるように曲がってきて、戻らなくなってしまったそうだ。
いつまでも黙りこくっているわけにはいかず、介護士が去った後に祖父に話しかけた。
「おじいちゃん」
目が薄く開き、口も少しだけ動いた。
とても「元気になったらご飯行こう」などとナンセンスなことは言えなかった。誰がどう見ても祖父は今まさに人生の幕を下ろそうとしていたからだ。家族たちが訪れるまでは、と必死でその緞帳を下ろさずに堪えてくれているのだ。
結局、僕は言葉少なに「ありがとう」などと伝え、施設を後にした。
帰りの車では、無性に煙草が吸いたくなった。
「ほら見て。お父さんはね、旅行に行くと必ず自分の親の写真を持って行っとったんやよ。昔は貧乏で満足に旅行も行けんかったから自分だけ申し訳ないって。お父さんはそういう人なんやわ」
施設を出たその足で祖母の家を訪ねると、彼女は嬉しそうに煎餅か何かの缶から写真を数枚取り出した。
「お父さんが逝ったらと思うと涙が出てきちゃうけど、おばあちゃんは大丈夫やよ。お父さんとの思い出がいっぱいあるもんで大丈夫や」
祖母は誰よりも分かっていた。祖父が存在しているという事実があと少しで失われるということを。
「お父さんが施設に入ってしばらく経つからもう慣れたつもりでいたけど、やっぱり寂しいわあ」
祖母は無理をして笑っているように見えた。
しばらく祖母の家でゆっくりした後の帰り道、少し遠回りをして祖父が入る施設の横を再び通った。そうすることに何の意味も持たないことを分かっていながら、何度も祖父が入る施設を横目に見た。
祖父は今まさにこの世を離れようとしている。最期の時に、彼は何を思うのか、どんなことを思い出しているのか。
そういえば。祖父が完全に僕のことを忘れてしまう直前のことを思い出していた。
当時は仕事帰りに気にして祖父の家を訪ねるようにしていたが、やはり祖父は僕が誰なのか分かっていないようで、部屋でする会話も当たり障りのない、空虚なものばかりだった。
「おじいちゃん、また来るでね」
帰り際に車の窓を開けてそう挨拶すると、ぼんやりとしていた祖父が、黒目の焦点を突然バチッと僕に合わせ、「ケン君、いつも悪いな。またいつでも遊びにおいで」と言うのだった。
そのあと、僕の車が坂を登って見えなくなるまで、毎回外で見送ってくれているのを僕は知っていた。バックミラーから米粒のように小さくなっていく祖父が見えていたからだ。きっと彼は寂しかったに違いない。自分がマトモになった途端に、孫が帰っていってしまうのだから。
帰る時に決まって元気な頃の祖父に会えると喜んだのも束の間のことで、いつの間にか別れ際にもあの頃の祖父は現れなくなってしまっていた。
僕は少し寂しくなって、車の窓を開けた。祖父の入る施設は夜と同化して後ろに流れて行った。
祖父が亡くなった日の夜、父と僕は寝ずの番をすることになった。
自分の親が亡くなったというのに、父は特に乱れることなく平然としていた。葬儀場のスタッフとは慌てることなく打合せをし、久方ぶりに会う親戚とは昔を懐かしんで談笑していた。
夕方から夜中まで葬儀場を訪れる人がぽつぽつとあり、結局一息ついたのは22時を回った頃だった。
父にも流石に疲れが出てきているようで、人が来なくなったのを確認してから、気が抜けたように腰を下ろし、余った助六を二人で分けた。
しばらく二人で黙って棺を眺めた後、僕たちは外に出た。父が僕の煙草を欲しいと言ったからだ。
「うわあ。10年振りに吸ったらクラクラするわやっぱり」
父は笑いながら煙を吐いた。
「いいの?10年も禁煙したのに」
「今日くらいはいいやろ。研二が持っとるハイライトの箱久しぶりに見たら吸いたくなっちゃった」
12月の夜は凍てつくような寒さで、空気が乾燥しているせいかいつもより煙草が美味しく感じられた。
「死とは人生に課せられた税」と誰かが歌っていたように、どれだけ抵抗しようとも人は死を避けることはできない。今隣で僕のハイライトを吸う父もいつかはこの世を去る日が来てしまう。いつも電話口で「あんたねえ」と大きな声を出す母が突然いなくなる日がいつかは来てしまう。
僕は知りたかった。心構えをするためにも、知識として持っていたかった。自分の親が死んでしまった時に、果たして何を思うのか。
「俺はいまだに自分の親が死ぬなんて思ってねえんだよなあ」
父は目を細めて美味そうに煙草を吸った。
「研二は俺が死ぬ時のこと想像できる?俺は自分の親が死ぬとこなんか想像できんかった。自分の親は当たり前に存在してて、存在し続けるもんやと今でも思ってるわ。俺が受け入れることができてないだけかも知れんけど、まだ死んでないんだわ、俺の中では」
父は僕の方を見ずに言った。どこかを見ていた。
「ところで研二はなんでハイライト吸ってんの?」
「父さんが吸ってたからなんとなく」
父は寂しそうに笑った。
「それは俺もや」
***
祖父の葬儀は滞りなく終わり、親族たちは散り散りに帰っていった。僕たち家族は仏壇を整理するため、祖母の家に向かった。
突然祖父が亡くなり、突然法事が始まり、突然祖父はお骨になって帰ってきた。まあ、そんなもんだろうと一歩引いて構えているように見せかけて、事態を最も飲み込めていなかったのは僕なのかもしれない。祖父が亡くなってしまったというのに涙一つ流すことができずぼんやりしてしまっているのは、今まで見ようともしなかった家族の『死』について突として真正面から向き合わなくてはならなくなってしまった状況への拒否反応なのか。
あと少しで分かりそうなのに、どうしても歯車がカチリと合わなかった。何を分かろうとしているのか、何が分からないのかも分からず、僕は思考の深みに嵌っていった。
仏壇の前に置かれた後飾りの線香に火をつけながら、何故だか僕の脳の記憶の壁に引っかかって取れない言葉があったことを思い出していた。
『あるけどない ないけどある』
先の葬儀の時に僧侶が伝えた言葉だ。
確かに祖父の認知症が悪化した晩年の数年間は、生きながらにして死していたのと同然だったのかもしれない。
「あんた、私達は葬儀屋行って手続きしてくるで。おばあさんは両隣に挨拶行くんやって。あんたは少し休憩しとっていいよ」
母の大きな声で思考が中断させられたことに苛々し、僕は返事をしなかった。
僕はキッチンにある戸棚から硝子でできた大きな灰皿を取り出した。よく祖父が灰皿を出してきて煙草を吸っていたのを見ていたから在処を知っていた。
換気扇の下でハイライトを取り出そうとして、手が止まった。僕が葬儀場で煙草を取り出した時、父が驚いたようにこの青いパッケージを見ていたのを思い出したからだ。
僕は特に深く考えることもなく、換気扇の下で吸うのをやめ、いつか祖父がそうしていたように縁側に灰皿を持って行った。沓脱石に足を下ろし、ぼんやりと煙を吐く。
落葉風に指を冷やされる。木が揺れた方向に煙が流れて行った。
葉が落ち切ってしまった百日紅を眺めていると、古ぼけた写真の色をした坊主頭の少年が駆けてきた。
大きな丸い目をした少年はこちらの方を向いて笑顔で何やら喋っている。少年の目線を追って僕の隣を見ると、エプロン姿の優しい目をした男性が僕と同じハイライトを吸っていた。
『ないけどある』
物質としての祖父は消滅してしまった。
けれども、祖父が心血を注いで育て上げた父がいるからこそ僕はここに確かに存在している。それは紛れもない事実だ。
何の因果か、確かに僕はこの青いパッケージのハイライトを愛煙している。何の因果か分からないけれども。
セピア色の少年は、こちらににっこり笑いかけてどこかに駆けていった。彼の目は、父によく似ていた。
「あら、ケン君。いたの」
いつの間にか近所への挨拶回りから祖母が帰ってきたことに気付いていなかった。
「ごめん、勝手に煙草吸っちゃって」
「いいの、いいの。昔お父さんがよくこうやって煙草を吸ってたから懐かしくなっちゃって」
慌てて灰皿を片付ける僕の背中に祖母は語りかけた。
「ケン君、ありがとね。こうやって孫たちが帰ってきてくれておばあちゃん嬉しい」
祖母は昨日から開けっ放しになっていた何かの缶から祖父の写真を撮り出し、皺の深い手でゆっくりと撫でた。
残された者たちは思い出に縋って生きていくしかない。逝ってしまった今になって、祖父との思い出は鮮明に思い起こされ、彼の魂は僕の根底に宿っているような気がした。消滅してしまった今になって、より彼の存在は色濃く、鮮やかに輝きを放っているように感じた。
あるようで、ない。ないようで、ある。
生とは、そういうものなのかもしれない。死とは、そういうものなのかもしれない。家族とは、そういうものなのかもしれない。
「これから1人で寂しいと思ってたけど、おばあちゃんは大丈夫やよ。お父さんが遺してくれたものがいっぱいあるもん。ね、お父さん」
祖母は笑って後飾りの方を振り返った。
静かに、真っ直ぐ伸びる線香の煙が、僕には少しだけ揺れたように見えた。
おしまい
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