論94.自分の身体に基づく声、感性に基づく歌唱と表現

〇上達法とは
 
上達法というのは、基本的には、自分の理想とする目標に対し、現状を把握して、そのギャップを埋めるステップを踏んでいくことです。
ただ発声や歌唱の場合には、この目標と現状、この両方とも曖昧なところが多いので大変なわけです。☆
 
まず、目標というのは、誰かのようにということになりがちです。あこがれから入るからです。そこは他の分野も同じですが、特に、歌に関しては、そのまま、抜けられない人が多いのです。
自分自身の目標というのは、歩んでいくなかでしか見つけられないものですが、それが見つかったのか、見つかってないのかも、わからないままに、進んでいくのです。☆
 
誰かのモノマネではない自分自身のオリジナリティということであれば、それは、自分自身が築いていく、自分が気づかなくても、誰かが気づいてくれる、そういうなかで創られていきます。
そもそも、創造というのは、新しいものだけに、目標として設定するのは、とても難しいことです。一方で、自己流に陥らないためにも、過去の優れたものに学ばざるをえないのです。
 
ですから、自分が目標レベルとしたい人の作品をまねていくことが入門になりやすいわけです。ただ、楽器と違い、その作風だけでなく、身体そのものが一人ひとり違いますから、その点において、それは、あくまで上達のプロセスまでのモデルに過ぎません。いわば、まねとは、本格的にスタートする入門以前のステップなのです。☆
 
そのモデルの見つけ方だけでも、大変な課題となるのです。
自分が憧れているものが、最初のモデルになるのは、どの分野でも同じでしょうが、ほとんどの場合は、多彩なモデルに接して、乗り換えていくことが、肝要となります。
 
声では、身体性での制限が厳しいのです。憧れるものと同じ楽器(喉)を手にすることができないからです。そこをしっかりと踏まえることです。なまじモデルが自分が似ていて、まねしやすいほうが、錯誤に陥りやすいでしょう。
 
まったく違うタイプのモデルなら、自分ができることと同じではないという現実にぶつかっていくからです。
ですから、声や歌よりも、自分のやりたいことから、スタートしたほうがよいでしょう。☆
 
次に難しいのは、現状の把握です。まず自分が歌ったりセリフを言ったときの感覚と、それが、自分の理想の状態で身体が使えているということ、そこでのギャップをつかみ、これを解決していかなければ、飛躍的な上達は望めません。
 
飛躍的な上達というのは、高い目標に対してのことです。
ですから、多くの場合は、ちょっとした上達を目的に最初はアプローチすることになります。
 
何しろ感覚も身体も、あらゆる分野の芸事の世界でのプロフェッショナルというところからすると、まだまだ未開とも思われる声の分野です。
そうであれば、この2つを把握して、ギャップを明らかにしつつ埋めていくということを、第一の目的に取りたいものです。
 
〇現状と将来
 
私自身は、ヴォイストレーナーという立場では、声そのものを研磨していくということをベースにしています。
そして、研究所では、ヴォイストレーナーをプロデュースするという立場で、自分の耳で判断して、どのように理想的な声や歌ということにするのか、そこに絞り込んでいます。
 
つまり、世界一厳しい耳をもち、その人に最もふさわしい表現としての歌をチェックするということです。そのために声をトレーニングする必要があると、セットするのです。もちろん、相手によっては、他の要素を重視するケースもありますが。
 
声は、その人の身体能力となります。ですから、身体からチェックします。
しかし、歌になると、それは、作品の伝達力、つまり、表現力からチェックしなくてはなりません。音楽的な要素に欠けている場合は、そういったものを補充しなくてはなりません。
 
基本的に、足りないものはできるだけ、広く入れ込んでいきます。できるだけ、深く、です。
身体も感覚も内部環境から整えるというのが、トレーナーがサポートするところです。
 
それ以上になると、プロデューサーと同じように、その人から出た、よいものを認め、悪いものを目立たなくしていくような指導となります。現実対応です。
ただ、そのときの現場だけで問うのではなく、トレーナーの場合は、将来に対して、よくしていくということがありますから、なおさら難しいわけです。
 
実際の仕事においては、レコーディングやオーディションなどの対策で即戦力となる、その場で最も通用するレッスンが優先されます。
しかし、将来性ということを考えると、それとは全く逆のものが重要な場合が、とても多いのです。
なぜなら、そこですぐに問われるものというのは、大体は見本があり、そこで優秀な人たちと似たことができるのかというような安易な基準で判断されるからです。
 
つまり、仕事ということであれば、そこで完結してしまう、いや、してしまう方がよい場合が多いのです。
そこで、そうした基準にうまく合わせられるトレーナーが、優秀だというふうに評価されます。
 
しかし、本来は、それを超えるオリジナリティを発掘し、その個人の才能を最もうまく使った作品に対応できるだけの基礎発声力を仕上げていくことこそ、トレーナーが手助けすべきことだと思うのです。
 
そのためには、今、まねるための見本ではなく、その人にとって将来、伸びるためのプロセスとなるような指針を与えなくてはなりません。
つまり、それぞれの人によって、またステップによって、理想モデルとするものは違ってくるのです。
 
〇現在での問題
 
そういった点では、歌謡曲全盛期のプロデューサーやトレーナーの方が、うまく、そうした見本を与えていたと思います。こういう歌い手のこの作品を聞いた方がいいということが、その人が伸びるために、ストレートによい材料になったからです。
その人に合ったモデルを売れている歌手から選べたともいえましょう。育成のパターン化、つまり、分類がしやすかったのです。
 
そうした面では、音響などの加工が著しくなった、今の時代においては、なかなか難題です。声の力や歌唱力そのものにプロとして熟練したような歌い手、見本となるような歌い手が少なくなってきました。それとは、違う意味で素質や個性を才能として発揮する例が多くなってきたのです。歌手に、声の力、歌の力として、そうした見本を与えることは、とても難しくなっています。
ていねいに伝わるように歌うことより、声域が広く、高い声が出て、裏声にも安定して切り替えられるような人、あるいは、そうした歌唱法が求められているからです。
 
昔のように、全身から感情を1つの表現として出していくのなら、将来像や見本がとりやすいのです。声を身体の延長レベルで捉えられるからです。しかし、もう、そのようなプロセスをなかなか踏めないわけです。
歌が複雑すぎたり、音が飛びすぎていたり、声域が広く、技巧的に複雑な処理を求められすぎていることもあります。
しかし、最初から、こうした応用技を学ぶことから入ってしまうと、基本のことをしっかりと行なう時間が取れないのです。
 
この点で、自分の歌がわからない、歌い方がわからないというような人は、とても多くなっていると思います。
 
さらに、カラオケによる採点機や、モノマネ、全盛の時代において、ステージパフォーマンスやダンサブルなものが受ける時代において、あるいは、メディアとして、TikTokやYouTubeなどで拡散されることを前提とすることにおいて、ますます、声そのものの力や歌唱力を磨くということから遠ざかっていっているのです。
 
〇歌の多様化のなかで
 
反面、昔、大ヒット飛ばした歌い手でも、その歌唱力が衰えていないときには、若い人が初めて聞いても、一声や1フレーズで、その違いということがわかるものです。初めて聞いた知らない歌でさえ、涙が出てしまうような感動が与えられることもあります。
そういう意味では、それだけ確かに声の力、音の力、歌の力というものがあるということは、疑う余地がないでしょう。
 
ただ、音楽が総合芸術ということになり、歌詞やメロディの力、アレンジや伴奏の力、さらにステージパフォーマンスも含めて見ると、学ぶ方にとっては、なかなか大変な時代になったと思います。
 
ですから、いろんな形での指導法があり、見方があり、価値観があり、それとともにいろんなノウハウや、教え方が出てきているのは、当然のことだと思います。
健康法のように、さまざまなものが出てくることによって切磋琢磨されるのも、この時代の流れでしょう。
声に歌の力がなくなったということで求められるものが変わっていくのも、あたりまえのことだと思うのです。
 
ですから、その辺について、単にノウハウとかメニュとかを並べるのではなく、どのような状況にあり、どのように利用していけばよいのかをあなた自身にとって考えるヒントとなるように述べていきたいと思います。
一言でいうと、「自分の身体に基づく声、感性に基づく歌唱、表現」について、ということです。
 
〇科学的アプローチ
 
科学的な方法に基づくべきか、感覚的な直感に基づくべきかというのは、あらゆる芸術的な活動において、どこかの段階で出てくる疑問点ではないかと思います。
芸術においてはいうまでもなく感覚的な直感、センスが優先されます。それで自分独自のものを創り上げていくことになるからです。
 
ただしクリエイティブな仕事においても、感覚本位のものには信用がおけないので、とにかく安全で安定的に確実になされるものとして、ある程度、標準化された方法を使うことがあります。
平均点の上を目的とした場合です。
それこそが、ある意味では、誰にでもできるプロセスを取るのであり、科学的な方法ともいえるわけです。
 
声においては、最も科学的な方法に近いところで行なわれているのは、医学の領域だと思います。ポリープができたら手術をして治す、そのことによって、その問題は解決するわけです。これは、科学的な研究成果として最もわかりやすい例です。
 
病気やケガを治す場合に、外科的な手術や感染症に対する治療というのは、ほぼ100%、元に戻すことができるという意味で、とても確かなことです。
しかし、だからといって、人間の身体の調子の不具合が全て、医学、この場合は、西洋医学を指したものになりますが、それで治せるわけではありません。
そうでなければ、なぜこんなにいたるところに、代替療法の看板が出ていて、多くの人が通うのでしょうか。身体の不調を訴えているのに、治らないでいる人が多いからでしょう。
 
〇器質的問題と機能的問題
 
発声障害のうち、ポリーブなどいくつかの身体的な障害による発声障害の問題、これを器質的障害といいます。それに対しての専門家は、医者で、治療で解決できます。耳鼻咽喉科や音声クリニックの領分です。
 
一方で、声に関しては、精神的な障害から起きるものも多いのです。身体的には何の問題もないのに、声が出なくなることもあります。これは、機能的発声障害です。
こうした診断をされた患者さんは、私のところにもよくいらっしゃいます。診断名としては、過緊張性発声障害、あるいは、痙攣性発声障害です。専門家としては、言語聴覚士でしょう。
ただし、一般の人の場合です。プロとして声を使う専門職が相手なら、ヴォイストレーナーでしょう。
 
一般の人と、述べているのは、普通の状態ではないのを普通の状態に戻すことです。これについては、正解があるわけです。
体調であれば、体調が悪くない、痛みやしびれがなく、普通の状態でいられるということです。発声に関しても、普通に、以前のように、声が出たり歌えるということが目的になります。
 
もちろん、なかには、普通の人のように声が出ない、普通に出せる状態になりたいという人もいます。人前では緊張して声が出なくなる、声が小さくて、相手に届かない、通らないなどというような場合も含めると、少なくはありません。
 
〇日常での習得での差
 
ヴォイストレーニングというのは、歌などもそうですが、日常の中で、普通の生活を送っていると、それなりにみんなある程度は、無意識に行なっているわけです。それでできているわけです。
歩いたり、荷物を運んだりすることが、筋トレやコアトレになっているのと同じように、です。そうしたことを行なったことがない人はいないでしょう。
 
ですから、誰かにヴォイストレーニングとして習うことが最初であっても、今まで生きてきた日常の中で、ヴォイストレーニングは、それなりに含まれているわけです。そのキャリア、レベルが人によって大きく違うと思った方がよいでしょう。
 
よく例えるのは、日本人であれば日本語を話せるということです。日本に住んで、日本人の両親のもとに生まれ、家庭で日本語を使っていると、学校では教わった覚えはなくても、それなりに覚えていくわけです。
しかし、よく考えてみれば、その人の生まれ育ちや環境によって、日本語を使える能力にはかなりの差が出るということです。
 
歌も同じで、幼稚園や学校に通っていたなら、それなりに歌う機会があるわけですから、歌ったことがない人は、ほとんどいないはずです。しかし、歌が好きで、毎日のように歌っていたとか、カラオケに行っていたというような人は、それなりにその分、うまくなるわけです。
 
しかし、ポイントは、練習した量が、うまさに比例するかというと、そういうわけではないということです。劇団や合唱団に入っていたからといって、役者や歌手になれるというものではありません。
しかし、何にしろ、声や歌は、自分の中に、それなりに積み重ねたものがあり、キャリアとして、よくも悪くも入っていると考えた方がよいでしょう。声を出すことに関しては、言うまでもありません。
 
〇科学的なヴォイストレーニング
 
科学的な方法については、これまでもそのいい加減な流用に、批判を述べてきました。それは、私自身が現場を経験し、本などを書くために、いろんな専門書から学んだり、科学や医学を扱っている人たちから教えてもらったりしてきたからです。今も、声紋の分析など最新の科学技術を取り入れ、また大学や病院などでの最新の分析なども学んでいるからです。
 
そのうえで、声や歌に関しては、問われるものは結果であり、そうした方法を積み重ねていくと、必ずしも同じ結果が出るわけではないということです。
まさに未知の患者に対する医学と同じです。何かの症状が起きたときに、それに対して、1つのアプローチの仕方として、医学的な方法は、科学的な考え方に基づいて、うまくいくこともありますが、そうでないことも多いということです。
 
情報がこれだけ簡単に手に入るようになると、歌や声を映像で見ることもできます。わかりやすい例でいうと、カラオケ採点機能、これでは、曲の仕組みと声の対応を、歌いながら目で見ることもできるわけです。
楽譜に書かれている音の動き、音程などに関しては、ピッチまで合っているかどうか、どこがどうそれたかが一目でわかるわけです。それをみて、修正もできるでしょう。
 
ですから、カラオケの採点で争う歌番組がとても多くなりました。
そうした点数やグラフで、結果やプロセスを見ながら、直すような練習する人が増えました。でも、それは、本当の歌唱力、表現力と違います。
点数はとても高いのに、何ら伝わる力がないような歌唱を思い浮かべていただければわかると思います。
 
ピアノでいうと、最後までテンポとキーのタッチを間違えないように弾いた、つまり、自動伴奏ピアノと同じようなことを行なっているといえるのです。
それでもピアノを弾いたことがない人やあまり聞かない人、初めて見た人にとっては、うまく聞こえることでしょう。ときに感動的なところまでいくかもしれません。
しかし、それを感動できる曲として捉え、芸術的な活動という人はいないでしょう。
 
歌に関しては、音楽のなかでも、芸術的ということでは、わかりにくいところがあります。
楽器の演奏の世界では、正確に音を奏でるのは、あたりまえのことであり、そこからオリジナルの奏法や音が出てくるかどうかが問われるわけです。
なのに、歌は、声そのものがそれぞれの人で違い、どう歌っても同じには歌えないので、なんとなくの個性が出ます。そうした点でオリジナリティさえわかりにくいのです。
 
私のようにプロと素人の人が同じ歌を歌っているのをずっと聞き分けてくると、何をもって個性なのか、オリジナリティなのか、表現として価値があるのかは、明らかに判断できます。1フレーズ聞くだけでも、ほぼわかるようになります。
今では、声そのものをつくり上げることよりも、耳で聞いたことでアドバイスするのが、何千人もの人と何十年もレッスンをしてきた私の個人的な仕事として、もっとも重要なことだと思っています。☆
 
〇声の科学と練習法
 
声の科学についても、声紋分析の専門家と一緒に、本を書いたことがあります。声のイメージと声紋との関係について、です。
研究者は、うまく歌える人の声帯、その動きや、その声の周波数分析などを行なって、何をもってうまいのかということを分析します。この分野は、まだまだ未熟なので、超音波が出ているからすごいなどといった素人騙しのレベルなのですが。
実際は、うまい歌を分析して、その要素をまとめているのにすぎません。つまり、そこから、うまい歌い手が生まれるわけではないのです。
 
しかし、私は、分析ではなく、人を育て、作品を作り出す仕事をしています。科学的正しさに近づければよいというのは、初心者の初期のアプローチにしか過ぎません。せいぜいカラオケ上級者への道です。
つまり、下手に思われないためには、どのように正せばいいということは、科学的な分析でわかるわけです。カラオケ採点で示されていたように、この音のピッチが下がっているから直しなさいというようなものです。
 
発声も歌声も、そのようなシンプルなものではないのです。よい声、魅力的な声ということでさえ、何をもって、どう定義するか、決まっているわけではないのです。
 
ですから、本などで紹介されているような練習法もまた、ひとつのサンプルにすぎません。
その人のそのときどきの目的によって、どのぐらい、どのように使うのかまで、示されません。
それどころか、人によっては、使った方がよい場合、悪い場合、必要ない場合もあります。トレーニングメニューでもそうです。
 
もちろん、一通り、知っておく分にはよいし、試みるのはよいでしょう。
姿勢について、呼吸について、発声について、100のレッスンメニューや100冊の練習メソッドがあれば、アプローチのヒントになります。
その大半には、似たことが書かれています。いくつかここに挙げておきましょう。
 
姿勢 頭のてっぺんから吊り下げられたようにする。
発声 胸式発声ではなく腹式発声にすること。
声道 喉頭と舌根を下げ、軟口蓋を上げること。あくびのようにする。
共鳴 眉間、額、頭頂、頬骨に響かすこと。
 
これらのアドバイスが、間違っているというのではありません。ただ、それを活かすなら、何のために、どの人にどのぐらい使うのかは、異なるのです。
もっと先のことから考えてみなくてはなりません。その人がどのような状態かをきちんと見なくてはなりません。
 
さらに、本番とトレーニングの違いということでは、時間的なギャップがあるので、その出来をどのように判断するのかについても、本当は、ややこしいものなのです。
 
例えばワークショップや体験レッスンの場合は、その場での感覚的な効果が試されます。どんなメニュを行なうにしても、それをやる前よりもやった後の方がよいとその人が認知できる結果が出なくては、失敗とか自分に合わないとみなされてしまうわけです。
 
ですから、トレーナーとしても、そのようなメニュを選ばざるを得ないし、だれにでも同じような結果が出るようにして、うまくいったと思わせるようにするわけです。
 
例えば、息を思いっきり吐いてみれば、呼吸をしやすくなります。一時的に深くなります。
柔軟体操や表情筋トレーニング、たとえば、思いきり笑うようなことをした後には、少なくとも声は出やすくなるはずです。最初に緊張してきている人が多いから、なおさら、その効果は出やすくなります。
 
でも、スポーツや武道の経験者ならわかりますよね。その体験を味わうことと、実際の基本のトレーニングとなることとは、全く異なるのです。☆
なのに、芸能の中でも特に発声や歌唱というのは、ややもすると、そのまま勘違いされてしまうことです。
 
楽しくないおもしろくないトレーニングだったら、身に付かないからやめてしまえという人もいるくらいです。
もちろん、楽しんだりおもしろがったりしたいのであれば、それが目的ですから、それでよいわけです。
ただ、真の上達を目指すのであれば、それで足りるはずがありません。
そうしたことでは、何をどう選ぼうが、それは本人の自由なのですが。
 
〇身になる努力にする
 
私がこれまで述べてきたのは、真剣に努力したい、長く続けてでも上達したいという人に対して、それだけのやるべきことや大変なことをきちんと与えることです。
一喜一憂、できたとかできないとかにとらわれるのではなく、よくわからないままに月日が過ぎてしまうのではなく、きちんと大変なことを何年もかかることを理解し、しっかりと実行していくことです。近道などないことを知り、コツコツと確実にキャリアとして重ねていくようにすることです。
 
発声や歌ほど、短期で見るのと長期で見るのとで変わってくるものは、ありません。しかも個人によって、その差はとても大きいのです。
ですから、何度も説明しているのです。ことばを変え、論法を変え、同じことを何度も繰り返してきました。
 
しかも、声には、精神的な要素も影響するために、あいまいです。初心者ほど、急にうまくなったり、急に声が出なくなったりするわけです。
子供ともなると、その日の朝によいことがあれば声が出て、よくないことがあれば、それまでの声が出なくなることなど、日常茶飯事です。
ですから、メンタルのコントロールも、とても大切なことになってきます。
 
そういった点で、科学的とか精神的というようなところのノウハウは、無力というよりも害になることが少なくありません。
そういうことよりも、本人が、その気になって集中したら声が出て、歌もうまくなったりすることもあるのです。
結果オーライの世界ですから、そこも利用してよいでしょう。
まさに、守破離です。私はそういう機会を何度も見てきました。
 
テンションをあげ、やる気にさせるのに長けたトレーナーもいます。
ただ、私たちに求められるのは、偶然の成果ではなく、確実な成果だからこそ難しいのです。
 
トレーニングを続けていると、なんだか素晴らしい声だったり、歌になったりすることがあります。しかし、それが、どの程度のものなのかを捉え、さらにコンスタントに確実に再現できなければ身についたとはいえないからです。
 
私としては、科学的なエビデンスや体験談、効果といったようなものよりは、生物学的な身体、人類としての共通の身体、自分自身の身体に対して、学んでいくほうが、確実に上達への道になると思います。
 
健康というのは、それを失ったら、生物は死んでしまうものです。
そのために、自然治癒力が、自分の生命を生かせるように、回復させるように与えられているわけです。
もちろん、歌や声は後天的に獲得したものですから、そこまでの基本的な共通があるわけではありません。
それでも人類の歴史のなかで長く受け継がれてきたものですから、自分の身体に聞いてみるというのが、本来は最も正しいこと、いや、深いことなのです。
 
正しいのレベルを抜けて、深めていく、だから際限がないのです。
それを判断する感性に対しても、同じことがいえます。
つまりは、自ら、鋭くなっていくことに尽きます。

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