アナログ派の愉しみ/映画◎森谷司郎 監督『八甲田山』
中間管理職は
そのとき
原作は、新田次郎が封印された史実を掘り起こしてベストセラーとなった長篇小説だ。森谷司郎監督『八甲田山』(1977年)が鳴り物入りで公開されたとき、大学生だったわたしも東京・立川の映画館へ駆けつけた。真夏だったにもかかわらず、上映中の館内は風雪に閉ざされたかのようでがたがた震えたことを覚えている。そして、社会に出たら必ず、こうしたクレイジーな組織とは一線を画さなければ、と肝に銘じたことも――。
最近、レンタルビデオで久しぶりに見直したところ、かつてとはずいぶん印象が異なるのに驚いた。この間、わたしが40年あまりサラリーマン人生を過ごし、否応もなく日本の組織風土に接してきたことが理由だと思う。そのせいだろう、映画がはじまって間もなく、陸軍のおエライさんからいきなり途方もない命令を伝えられてふたりの中隊長が呆然と立ちすくむシーンに、早くも中間管理職の宿命を見て取って涙がこぼれてしまい……。
1901年(明治34年)、弘前の第四旅団本部で厳冬期の八甲田山雪中行軍演習が企画された。これは近い将来の対ロシア開戦に備えてのもので、現場指揮官に任じられたのは、青森第三十一連隊の中隊長・徳島大尉(高倉健)と弘前第五連隊の中隊長・神田大尉(北大路欣也)の両名だった。双方が八甲田山中で行き会えるよう、青森から出発する徳島隊は大きく迂回しなければならず、240キロにおよぶ行程を精鋭27名の小隊編成で挑むことにする。一方の弘前から出発する神田隊はわずか50キロの行程となるため、あえて中隊編成としたうえに、大隊長・山田少佐(三国連太郎)の強引な申し入れにより大隊本部も加わって、総勢210名の大所帯で臨むことになる。
かくして、年明けに実施された演習では、あまりにも対照的な結果を迎えた。徳島隊は一致結束して軍歌をうたいながら行進し、途中の村落では案内人を乞うて積雪の道を確かめ、27名全員が無事に全行程を踏破する。ところが、神田隊では当初から山田大隊長がいちいち口をはさんで実質的な指揮権を行使し、村人の案内を斥け、独自の判断で進路を定め、あげくの果てに猛吹雪のなかで夜通し右往左往するうち、兵のある者は凍りつき、ある者は滑落し、また、ある者は狂気に駆られて、続々と命を落としていく。どこまでも白い闇に阻まれて脱出不能の状況下、神田大尉が叫ぶのが公開当時流行語となったセリフだ。
「天はわれわれを見放した!」
その神田大尉もみずから舌を噛み切って斃れる。ほんの目と鼻の先でありながら兵営に帰還できた神田隊は210名のうち12名に過ぎず、かろうじて救出された山田大隊長は責任を取って自決し、あとは事故の一切を隠蔽することで幕引きが図られた。
こうやってストーリーを辿ってみると、降って湧いた業務上の試練を前にして、それがいかに過酷であっても現場指揮官の統率のもとで行動した徳島隊のほうは乗り越えられたのに対し、上級幹部の横やりで指揮権に二重構造が生じた神田隊はもろくも瓦解して悲劇につながった、と言いたくなる。中間管理職への権限・責任の集中の度合いがことの成否を分けた、と――。果たして、そうだろうか?
わたしがこれまでサラリーマン人生で見聞してきたところでは、中間管理職に権限・責任が集約されている組織などおよそ目にしたことがない。たいていの場合、中間管理職に求められるのは「根回し」、つまり、上級幹部ばかりでなく組織の上下左右の意向をひとつにまとめていく能力であり、首尾よくことが成功したときには組織全体の得点とされ、失敗したときは中間管理職の失点となるものの、責任の所在は曖昧なので厳しく問われることはない。ひいては、こうした仕組みのもとで巧みに立ち回った者が出世の階段をのぼって最高意思決定機関を構成するから、大組織であればあるほど責任の所在は組織そのものにすっかり溶け込んでしまってどこにも見当たらない。それは「和をもって貴しとなす」日本の風土には適しているのかもしれないが、昨今、世上を騒がせているみずほ銀行のシステム障害や三菱電機の品質検査偽装、トヨタ系列の車両試験不正、あるいは、マイナンバーカードをめぐって続出するトラブル……などなど、そこに綻びが生じた例だろう。
ひっきょう、徳島隊と神田隊のあいだに大きな差違はない。青森第三十一連隊では上級の幹部連中が責任を回避するために中間管理職へ丸投げしただけのことで、最後は知らぬ存ぜぬで通すつもりだったろう。どのみち、この雪中行軍演習の成り行きが組織全体にフィードバックされて生かされることがない点では、弘前第五連隊のケースとなんら変わらない。おびただしい犠牲者たちはただの犬死にで終わったのである。映画はラストで、八甲田山から生還した徳島隊の面々も、2年後の日露戦争中のさなか、極寒の黒溝台における戦闘で全員が戦死したことを伝えて結ばれている。