アナログ派の愉しみ/音楽◎グルダ演奏『月光』ソナタ

破天荒なピアニストが
日本人女性に捧げた愛の演奏


クラシック音楽界に星の数ほども出現したピアニストのなかで、最も破天荒な存在かもしれない。フリードリヒ・グルダ。

 
1930年にウィーンで生まれ、16歳のときにジュネーヴ国際音楽コンクールで第1位となってデビューを果たす。以後、世界各地で演奏活動を繰り広げるとともに、レコード録音も積極的に行う。わけても、ベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ全集』(1967年)と『ピアノ協奏曲全集』(1970~71年)、バッハの『平均律クラヴィーア曲集』(1972~73年)、モーツァルトの『ピアノ協奏曲第20、21、25、27番』(1974~75年)は、それぞれ同曲のレコードのベストワンに挙げられることも多い。

 
こうしたドイツ・オーストリア音楽の本流で図抜けた評価を確立する一方で、グルダは20代のころからジャズにも熱心に取り組み、ライヴハウスでピアノだけでなくサックスも演奏してみせたり、ビッグバンドのためにみずから作曲したり、チック・コリアら著名なジャズ・ミュージシャンとコラボレーションをしたり。さらにはまた、けばけばしい扮装で「ゴロヴィン」という名の歌手としてステージに立ったりしたことも……。およそここまでの破天荒なパフォーマンスをやってのけたピアニストは他にいないだろう。何しろ、本人が自叙伝『俺の人生まるごとスキャンダル』(1990年)で、「俺のなかには、そう、うんと深い、核心とでもいったところに、自分でもまったくコントロールできない何かがあるんだ」(田辺秀樹訳)と述懐しているくらいだから。

 
この自叙伝のなかに、とくに日本人のわれわれの目を見開かせる個所がある。グルダが最初の結婚相手だったアルゼンチンの女優と別れたのち、1967年2月に初めて日本へ演奏旅行でやってきた際のエピソードだ。

 
「俺はユウコと知り合ったんだ。彼女はすごく若かった。二十歳だったよ。俺は三十五。彼女はピアニストへの道をめざしていて、腕前も相当のものだったけど、聴いてビックリ仰天するってほどじゃなかった。だから、彼女のピアノはどうってことなかったんだけど、俺は彼女が好きになってしまった。まったく、性懲りもなく、って感じさ。彼女はそれからヨーロッパへやってきて、俺たちは盛大なハネー・ムーンをする、ってことに相成った」

 
このとき、グルダは東京で2回のリサイタルを開いたほか、NHKで放送用のセッション録音も行って、現在では『1967年 東京録音』というCDになっている。こちらは聴衆がいないスタジオでの演奏だけにだれ憚ることなく、異国の娘にひと目惚れした心情のたゆたいがストレートに伝わってくるような気がする。まず気負い立った弾むようなバッハの『イタリア協奏曲』ではじまり、ついで、ふんだんに装飾音をちりばめた饒舌なモーツァルトの『ピアノ・ソナタ第11番〈トルコ行進曲つき〉』、そして、ベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ第14番〈月光〉』へと――。

 
「今度の変化は、一人の愛らしい魅惑的な乙女のせいなのだ。――彼女は僕を愛してくれ、僕もまた愛している。二年ぶりでまた幾らか幸福な瞬間を楽しんでいる。結婚して幸福になれるだろうと考えたのは、今度初めてだ。ただ遺憾なことは、身分が違うのだ」(小松雄一郎訳)

 
ベートーヴェンが友人宛てに書き送った手紙(1801年11月16日付)の一節だ。ここで言及されている乙女、伯爵令嬢ジュリエッタ・グイチャルディに『月光』ソナタは献呈されている。まさに楽聖がこの曲に封じ込めた恋の炎がピアニストに燃え移ったかのごとく、グルダはひめやかな幻想にさまよう第一楽章から、切羽詰まった焦燥感の第二楽章を経て、ついに思いの丈を爆発させた第三楽章へと、一気呵成に鍵盤の指を走らせていくのだ。わたしは『月光』がこれほど生々しく鳴り響いたのを聴いたことがない。あるいは、この演奏さえもかれ一流の韜晦だったのだろうか?

 
後日譚を書き添えれば、ふたりは約10年の結婚生活のあいだに一子を成したものの離別に至ってしまう。くだんの自叙伝には、グルダのこんな言葉が記されている。

 
「俺にしてみれば、自分の妻がいま幸せか不幸せかってことよりも、ソナタのアダージョを見事に弾くことのほうが、ずっと重要だったんだ」

 
やはり、いつまでも老成とは無縁で「自分でもまったくコントロールできない」破天荒なエネルギーに突き動かされ続けていたのだろう。そんなグルダは、最も敬愛するモーツァルトの誕生日に人生を終えることを願っていたというが、果たして2000年1月27日、モーツァルトが生まれてからちょうど244年目のその日に69歳で他界した。
 

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