アナログ派の愉しみ/本◎劉 慈欣 著『三体』第一部

世界的ベストセラーのSFは
日本人にとっての黙示録か


日本で最古の物語とされる『竹取物語』はまた、SF(サイエンス・フィクション)のさきがけとも言われている。確かに、月世界にかぐや姫の姿を遠望した平安朝のひとびとの宇宙への関心は、21世紀のわれわれにとっても縁遠いものではない。

 
それはそうとしたうえで、SFを近代科学主義の申し子と見なすなら、日本では1960年代の高度経済成長のもと、小松左京、筒井康隆、星新一らの登場によって黄金期が幕を開けたと言えるだろう。さらに大掴みに言ってしまえば、世界的に眺めてもSFというジャンルは、産業革命後のヨーロッパやら、ロシア革命後のソ連やら、第一次・第二次世界大戦後のアメリカやらと、その社会が大転換を遂げ、ひとびとの眼差しが未来へと向けられるタイミングで活況を呈してきたように思う。

 
近年、中国においてめざましいSFの勃興世界の注目を集めているのも、一党独裁下でがんじがらめにされてきた社会が、その構図自体は変わらないにせよ、経済規模の急激な膨張によってやはり歴史的大転換が現出したことが背景に横たわっているに違いない。こうした文学の現象のひときわ巨大な成果が、1963年山西省生まれの劉慈欣(リウ・ツーシン)の『三体』(2008年)だ。

 
主人公の葉文潔は、かつて文化大革命で殺された大学教授の娘で、苦難の年月を過ごしたのちに、天体物理学者として国家の極秘プロジェクトである地球外知的生命体の探査に携わることになった。大興安嶺山脈の基地に設けられた強力なレーダーによって宇宙に向けてメッセージを発信しつづけた結果、地球からおよそ4光年のかなた、太陽系に最も近い恒星系のケンタウルス座アルファ星系から応答が返ってきた。そこは三つの太陽を持つ三重星系の世界だったことが作品のタイトルにつながる。

 
天体力学において、宇宙空間に天体がひとつ、ないしふたつある場合には、その運動の状態を簡単な方程式で表すことができる。ところが、ここにもうひとつ加わって、天体が三つになったときに、たがいの万有引力にもとづいてどのように運動するのか、これは18世紀以来「三体問題」として研究の対象となり、ポアンカレによって一般的な方程式では記述できないことが証明されるに至った。つまり、三つの太陽に支配されたケンタウルス座アルファ星系の惑星はおよそ秩序を欠いた世界であり、そこでは苛烈な環境のもとで生命が凄まじい勢いで誕生と絶滅を繰り返し……。これ以上の説明はネタバレになるからやめておこう。ひとつだけつけ加えておくと、未知の宇宙人との交信にあたって、幼い日に文化大革命を体験した葉文潔はひそかにこんな見解を抱いているのだ。

 
「人類のすべての行為は悪であり、悪こそが人類の本質であって、悪だと気づく部分が人によって違うだけなのではないか。人類がみずから道徳に目覚めることなどありえない。自分で自分の髪の毛をひっぱって地面から浮かぶことができないのと同じことだ。もし人類が道徳に目覚めるとしたら、それは、人類以外の力を借りる必要がある」(大森望ほか訳)

 
この冷徹な悲観主義とでもいうべきものは、これまでのアーサー・C・クラークやカール・セーガンらの作品と大いに異なる。むしろ、紀元前の荀子や韓非子といった思想家からつらなる中国特有の性悪説の伝統と見なしたほうがいいのではないか。

 
2019年夏に『三体』の日本語版が出たとき、アメリカのオバマ元大統領も愛読し、世界じゅうですでに約3000万部のベストセラーを記録したと大きな話題となり、その後、2年がかりで第二部、第三部も順次翻訳出版されていった。しかし、気宇壮大なストーリーが次第にファンタジーの色彩を強めていくなかで、わたしにはリアリズムに徹した第一部が圧倒的に面白かった。最大のキイ概念の「三体問題」が、もし天体力学を借りて、従来地球上で覇権を握ってきたアメリカとロシアの両超大国に、いまや中国も対等の存在感をもって加わって三大超大国が形成されるという地政学的な未来像も含意しているとしたら? そのとき日本は三国のはざまに位置して、さしずめケンタウルス座アルファ星系の惑星のように、無秩序のもとで苛烈な運命にさらされるのだろうか。この作品は、他ならぬわれわれ日本人にとっての黙示録かもしれないのだ。


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