アナログ派の愉しみ/音楽◎ロドリーゴ作曲『アランフェス協奏曲』
スペインの民衆の
したたかさを伝える音楽として
スペインの盲目の作曲家、ホアキアン・ロドリーゴ・ビドレの『アランフェス協奏曲』(1939年)について、わたしは初めて接したナルシソ・イエペス(ギター独奏)とアタウルフォ・アルヘンタ指揮のスペイン国立管弦楽団による録音(1957年)が耳に染みついていまに至っている。それは、見渡すかぎり赤茶けた大地と哀しいくらいの青空が広がり、キリスト教とイスラム教がせめぎあい交じりあいしてきた、スペインの風土の噎せ返るような空気を如実に伝えてくるもので、他の国のギタリストたちの演奏が気の抜けたビールのごとく感じられてしまうのだ。
一般的な解説によれば、ロドリーゴはこの三楽章編成の楽曲に、スペイン内戦で荒廃した国土の復興の祈りや初めての子を流産した愛妻への慰藉の思いを込めたといわれ、もちろん、それはそれで根拠があってのことだろう。しかし、わたしはイエペスとアルヘンタの演奏を聴いていると、そうした生真面目な理解の仕方よりも、もっと生々しく皮膚がざわつくような感触に突き動かされて、たとえば、アウレリオ・エスピノーサが編纂した『スペイン民話集』(三原幸久訳/岩波文庫)の世界と重ね合わせてみたくなるのだ。こんなふうに――。
第一楽章。いかにもスペインの民衆の熱気が渦巻くなかで、さあ、物語のはじまり、はじまりといった風情の音楽。
主役はフアンとマリカという農家の夫婦だが、妻のマリカはとっくに村の司祭と情を通じていた。ある日、彼女は司祭を家に招いていちじくの実でもてなそうと庭の木に登り、枝の上から夫のフアンに向かって「どうしたの、司祭さんがあなたの背中に乗りかかるなんて」と声をかけた。フアンはびっくりして「お前、気でも狂ったのかい。どうして司祭さんが私に乗りかかったりするんだね。早く降りてきなさい。高いところに上がって気がおかしくなったのだよ。私が木に登るから」と応じて役割を交替した。
第二楽章。アダージョ。イングリッシュホルンに導かれて、ギターがあのあまりにも有名な旋律の変奏を重ねていく音楽。
マリカの代わりに木のてっぺんに登ったフアンが下を眺めると、果たして妻の背中に司祭が乗っているのが見えたので「お前のいったことがほんとうだとやっとわかったよ。多分、お前は信じられないだろうけれど」と口にしたのに、マリカは司祭に抱かれながらこう答えた。
「ああ、フアン、あなたもその木に登って私と同じように気が狂ったみたいね。私がその木に登れば、下にいる人たちが抱き合っているように見えると言ったのがほんとうだとわかったでしょう。でも、いいのよ、フアン、そこでゆっくりいちじくを取っていればいいのよ。別に急がないから。大きそうで、よく熟れたいちじくを選んでちょうだい。司祭さんは立派ないちじくがほしいと言っていらっしゃいますからね」
もとより、いちじくとは、「エデンの園」でアダムとイブが羞恥心を知ったときにその葉っぱで局部を隠したものであり、ただならぬ意味が含まれているのだろう。ひたすら大胆不敵に振る舞うマリカと、あっけなく丸め込まれてしまうフアン。かつてイエペスはルネ・クレマン監督の映画『禁じられた遊び』(1952年)のテーマ音楽で世界じゅうの人々の涙を誘ったが、そのかれのギターがここで奏でる憂愁に充ちた旋律は、わたしの耳には哀れなフアンばかりでなく、ともすれば妻に籠絡されがちな世の夫たちをいたわっているようにも聞き取れるのだ。
最終の第三楽章。ロンド。ふたたび賑々しい活気を取り戻した音楽。
かくして、フアンがいちじくの木でせっせと実を集めているあいだ、マリカと司祭は心ゆくまで愛の営みに興じるのだった。そのありさまは、実のところ、宗教の貞操観念など蹴り飛ばして憚らない民衆のしたたかさを伝えて、哄笑のうちに『アランフェス協奏曲』は幕を閉じるのである――と、まあ、こうした受け止め方はいかがだろうか?