アナログ派の愉しみ/音楽◎矢代秋雄 作曲『交響曲』

芸術家のアタマの
仕組みはわからない…


わからない……。一体、芸術家のアタマの仕組みはどうなっているのか? と、途方に暮れてしまうことはしばしばだけれど、作曲家・矢代秋雄もそんな疑問を抱かせずにはおかないひとりだ。

 
1929年、東京で西洋美術史家の父親とピアノを嗜む母親とのあいだに誕生したかれは、恵まれた環境のもとで幼時から音楽に親しみ、小学生のときに早くも作曲の筆をふるいはじめたという。太平洋戦争中に東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)に進学して、戦後の1951年に卒業すると、同級生の黛敏郎らとともにフランスのパリ音楽院に留学してさらに研鑽を積んだ。このあたりまでの意気盛んな前半生はわかりやすいのだが、どうにも理解に苦しむのはそのあとだ。

 
1956年に27歳で帰国して、パリ音楽院の卒業作品「弦楽四重奏曲」が毎日音楽賞一等賞に選ばれて新進作曲家のスタートを切ったのち、矢代が完成させた主要な作品は『交響曲』(1958年)、『2本のフルートとピアノのためのソナタ』(1958年)、『ピアノ・ソナタ』(1961年)、『チェロ協奏曲』(1965年)、『ピアノ協奏曲』(1967年)と、各々のジャンルでひとつずつ、あわせてわずか五つに過ぎないのである。わたしだったら、あれだけ勉学に励んだ以上はせっせと元を取ろうとするだろう。いくら完全主義者だとしても度を越しているのではないか? そして、東京芸術大学教授をつとめていた1976年に46歳で他界してしまう。

 
また、いかにも不可解なのはその『交響曲』だ。これは日本フィルハーモニー管弦楽団の委嘱によって書かれたもので、初演を行った指揮者・渡邉暁雄と同楽団のコンビのライヴ録音(1981年)が残っている。このCDをかけると、バッハ以前のバロック音楽から、ソナタ形式の古典派音楽を経て、ストラヴィンスキーらの20世紀音楽へと至るクラシック音楽のエッセンスが奔放かつ緻密に組みあげられて、聴いているうちに自然と居ずまいを正したくなる楽曲だ。

 
わけても、第二楽章のぎくしゃくとしたリズムの乱舞には耳を惹きつけられる。この個所はなんと、前回の記事で取り上げた獅子文六のユーモア小説『自由学校』(1950年)に由来するという。

 
主人公の南村駒子は、夫の五百助がふいに家出したきり1週間も帰ってこないので、とりあえず大磯に住む五百助の叔父のところへ相談に出向く。すると、この元・法学者の人物は「五笑会」と称して自宅に似たり寄ったりの高等遊民の連中を集め、大太鼓、小太鼓、笛、鉦で賑々しく、テンテンテンヤ、テンテンヤ、スケテンテン……と神楽囃子をやるのを道楽としていた。そのノンキなありさまを目の当たりにした駒子は、むらむらと腹立たしい思いが込み上げてくるのだった。

 
 ――なんという、反動人種の集まりだろう。一人だって、現代の知性を感じさせる顔は、見当りはしない。
 古びた、赤い麻の緒のついた太鼓や、ヤカンの蓋のような鉦や――そんな原始的な打楽器と竹の笛を、さも大切そうに、前に置いて、畏まってる人々を、駒子は、乾いた眼つきで、眺め渡した。

 
この小説は当時、ベストセラーになって人気を博したそうだから、矢代が読んだとしても不思議はないにせよ、こんなふうに冷笑の的として描きだされた神楽囃子の場面がよほど琴線に触れたものらしい。そのテンテンテンヤ、テンテンヤ、スケテンテン……にもとづき、八分の六拍子+八分の二拍子+八分の六拍子という特異な変拍子を考案して、これを生涯ただひとつの交響曲に取り込んでしまったのだ。しかも、まるでラヴェルの『ボレロ』を思わせるような精密な設計によって厳かきわまりなく。

 
まったくもって、芸術家のアタマの仕組みはわからない……。
 


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