アナログ派の愉しみ/音楽◎ワーグナー作曲『トリスタンとイゾルデ』

その音楽には
魔性が棲みついている


クラシック音楽において、男と女の性愛の闇に最も奥深くまで分け入ったのはリヒャルト・ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』(1865年初演)だろう。この白日夢のような楽劇に、わたしはただならぬ魔性が棲みついているとしか思えない。

 
そもそも、ワーグナーがこの作品をつくりあげたのは、ドイツ国内での革命運動に失敗してスイスへの亡命を余儀なくされ、新たな地で庇護の手を差し伸べてくれた実業家のもとで過ごすうち、その恩義あるパトロンの妻と不倫の関係を結んだのがきっかけだった。つまりは、みずからの放埓な愛欲のエネルギーを臆面もなく堂々と舞台劇に結実させたわけだが、縦横無尽に半音階を編み込んでみせた作曲法は、クラシック音楽の基礎をなしてきた和声体系を崩壊のぎりぎりにまで追い込む画期的なものだった。そんな危うさを孕んだ音楽が原因かもしれない、当時、『トリスタンとイゾルデ』の全曲上演に携わった指揮者のフェリックス・モットルは演奏中に心臓発作で死去した。さらに、第二次世界大戦後に「ワーグナーの聖地」バイロイトの音楽祭で活躍したヨーゼフ・カイルベルトもやはりこの作品の指揮しながら心臓発作で斃れる。それにショックを受けた同年生まれのヘルベルト・フォン・カラヤンは、『トリスタンとイゾルデ』を指揮中のわが身に計測装置をつけて心拍の変化の研究にいそしむことに……。

 
全3幕の舞台は登場人物も少なく、ヨーロッパ中世の伝説にもとづくストーリーは単純だ。第1幕で、コーンウォールの勇者トリスタンは、叔父のマルケ王の妃に迎えるためアイルランドの王女イゾルデを乗せた船の指揮をとっている。両者にはかつて仇敵同士として相まみえた過去があり、そのときから双方の心中にひそかに芽生えたものがあったのだろう、イゾルデの侍女が毒薬の代わりに差しだした媚薬を飲み干すなり、ふたりは陶酔状態となって愛を語りだす。第2幕で、イゾルデはすでに王妃の座にありながらトリスタンのもとにまっしぐらに駆けつけると、ふたりはあたり憚らず抱きあい、まさぐりあい、ほとんどうわごとのような歌をえんえんと交わすのだった。

 
 おお、降り来たれ、
 愛の夜よ、
 忘れさせておくれ、
 生きていることを。
 お前の懐に私を抱き上げておくれ!
 世間から私を解き放しておくれ!
 (井形ちづる訳)

 
こうした事態をマルケ王に密告したライヴァルの家臣がやってきて、剣をかざしてトリスタンに斬りかかる。第3幕では、重傷を負ったトリスタンがひたすら愛人の訪れを待ちわびているところにようやくイゾルデが到着したとたん、トリスタンは息を引き取り、イゾルデもまためくるめくエクスタシーのアリア「愛の死」を絶唱して遺骸のうえにくずおれるのだった――。

 
そのとおり、上演時間4時間におよぶ長大な舞台劇が描きだすのは、男と女が真っ裸となって愛撫から性交の繰り返しを経てついに絶頂に達し、もはや生死の境も消えてしまうまでの、実に究極のセックスの過程に他ならない。わたしが初めてこの作品に接したのはまだ童貞の大学生だったころ、前記の用意周到なカラヤンがベルリン・フィルを指揮し、ジョン・ヴィッカーズ(テノール)とヘルガ・デルネシュ(ソプラノ)が主役をつとめた録音(1971年)で、これが性愛の神秘なのか! と下腹部が熱く火照り、第2幕の二重唱では気づいたら股間のモノが勃起していたのに戸惑った。ちなみに、そのあとにはフルトヴェングラー、ベーム、クライバー、バーンスタイン……といった指揮者による名盤も鑑賞したけれど、この間に性愛の現実に触れたせいか、もはやぴくりとも股間の反応がなかったことを報告しておく。

 
今日においては、男と女といった性別も絶対的な根拠を失い、LGBTQを含めて相対的な関係のもとに位置づけられているなかで、トリスタンとイゾルデのように素朴にセクシュアリティを突きつめていくことはもはや不可能だろう。その意味で、このワーグナーの魔性の作品は空前にして、おそらく絶後の地位を占めているのだと思う。
 

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