アナログ派の愉しみ/バレエ◎『ヘッダ・ガーブレル』
120年の歳月を経た
女性の虚栄心のかたち
ぐうの音も出ない、とはこんなときに使うのだろうか。2017年にノルウェー国立バレエがオスロのオペラハウスで行った『ヘッダ・ガーブレル』公演のライヴ映像。言うまでもなく、ノルウェーが生んだ「近代演劇の父」ヘンリク・イプセンの有名な戯曲(1891年初演)にもとづき、女性演出家のマーリット・モーウム・アウネが8人のダンサーを中心とする現代舞踊劇に仕立てたものだ。
ヒロインのヘッダ・ガーブレルは上流階級に生まれ、父親の将軍に溺愛されて育ち、自由気ままな青春時代を過ごした。そんな彼女の心を最も捉えた異性は破滅的な性格の学生エイレルト・レェーヴボルクだったが、いよいよ結婚にあたってはまじめさだけが取り柄の別の学生イェルゲン・テスマンのほうを選んだ。だが、そうした妥協のしっぺ返しをすぐさま食らうことになる。いまや学者のタマゴの夫は長いハネムーンのあいだも新妻そっちのけで、あちこちをまわっては専門の文化史の資料収集に余念がなく、かくして半年後にようやく新居に落ち着いたときには、もはやヘッダにイェルゲンへの愛情はかけらも残っていなかったのである――。
イプセンの原作はここからはじまるのだが、登場人物たちのセリフによって説明される過去の経緯も、バレエではステージ上の肉体表現として再現されるため、ヘッダを捕らえて放さない虚栄心という魔物が生々しく視覚化される。主役に扮したグレーテ・ソフィーエ・ボールンド・ニューバッケンは、小柄ながら四肢を躍動させてエイレルトと激しいデュエットを踊り、みずから全裸となって官能を突きつめたのちに、イェルゲンが書物を抱えて登場するとたちまち衣服をまとって素肌を覆ってしまう。もちろん、夫にだって虚栄心はあるのだけれど、それが向かうところは中世ブラバンドの家内工業についての論文を書き上げて大学教授のポストを手に入れるというもので、妻の胸中にわだかまっている熱情とは相容れない。こうして行き場を失ったヘッダの虚栄心が悲喜劇を招き寄せていく。
ずっと音信不通だったエイレルトがこの地にやってきたのだ。しかも、かれもまた学者の道に進んで夫のライバルとして大学教授のポストを狙っているうえに、いまは自分が見下してきた風采のあがらない女友だちのテアとつきあっているらしい。こうして登場人物たちの抱え込む葛藤が火花を散らしてぶつかりあった末に、ついにカタストロフィーに至る。昔日と同じようにアルコールを浴びるほど飲んだエイレルトは大切な論文の原稿を落とし、それを偶然拾ったイェルゲンが持ち帰ってヘッダに託すると、彼女は暖炉にくべて燃やしてしまったばかりか、やがて目の前に現れたかつての恋人に向かって父親のコレクションだった一丁のピストルを差しだす。それを手に立ち去ったかれが死んだことを知らされると、思わず歓喜の声を挙げるのだ。
「ああ、判事さん、――何て解放感があるんでしょう、エイレルト・レェーヴボルクのこの事件には」(原千代海訳)
だが、そのニュースを伝えたブラック判事により、エイレルトの死は売春宿で泥酔したあげくの事故で、みずから手にしたピストルでこめかみや心臓を撃ち抜いたのではなく、たまたま暴発した弾丸が腹部に当たったのに過ぎないと知るなり、彼女は嫌悪の表情を浮かべる。
「また、違う! ああ、あたしが手を触れるものは、何もかも滑稽で、下卑たものになっちまうのね」
もちろんのこと、バレエではこうしたセリフが口にされることはないので内面の心理ドラマを辿ることは難しい。しかし、その代わり、戯曲ではただセリフをもって観客に告知されるだけのヘッダの最期が、ここではステージ上で演じられるのだ。ぶざまに頓死したエイレルトを嘲り、その焼失した論文の復元に取り組むイェルゲンとテアを嘲り、暴発したピストルが彼女の所有物だったことをネタに肉体関係を迫るブラック判事を嘲り、世界のことごとくを嘲って彼女は決行する。父親の将軍のもう一丁のピストルをこめかみに当てて引き金を引くことを――。その無残ながらもあくまで強烈な美をまとったヒロインの姿は、イプセンの原作から120年あまりの歳月を経て、さらに進化を遂げた女性たちの虚栄心のかたちを表すものなのか。
まったくもって、わたしはぐうの音も出ないのである。
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