アナログ派の愉しみ/音楽◎ハチャトゥリアン作曲『剣の舞』
だれをも鼓舞してやまない
小さな名曲はこうして誕生した
クラシック音楽の分野において、20世紀の作品で人気ナンバーワンといったらハチャトゥリアンの『剣の舞』だろう。この演奏時間がわずか2分少々のバレエ音楽を、たいていの子どもだって知っているし、たとえ知らなくとも一度耳にすればすぐに覚えてしまうはずだ。あらためて考えてみると不思議な気がする。星の数ほどもある名作・傑作のなかで、どうしてこの小さな曲が特権的な地位を占めることになったのか?
作曲者のアラム・ハチャトゥリアンは、1903年に帝政ロシアの支配下にあったグルジア(現・ジョージア)でアルメニア人の職人一家に生まれた。音楽の専門的な教育を受けたのは20歳近くなってからで、自分のルーツであるアルメニアやコーカサス地方の民俗音楽の語法を取り入れた作風で知られるようになり、第二次世界大戦中の1942年、39歳のときにキーロフ記念レニングラード・オペラ・バレエ劇場のためにバレエ音楽『ガイーヌ(ガヤネー)』を作曲して、その最終幕に登場するのが『剣の舞』だ。
ストーリーのあらましはこんなふう。アルメニアの国境地帯のコルホーズ(集団農場)にあって、若妻のガイーヌと仲間たちは国家から表彰されるほどの模範労働者だったが、夫のギコはできそこないで遊びほうけては妻に暴力をふるうありさまに国境警備隊長のカルサコフも胸を痛めていた。やがてギコは密輸団の一味に加わって村の綿花倉庫に放火して逃亡を企てたあげく、引き留めようとしたガイーヌに重傷を負わせてカルサコフに逮捕される。その翌年、全快したガイーヌはコルホーズの人々の祝福を受けてカルサコフと晴れて結婚式を挙げることに……。
のちにモスクワ音楽院でハチャトゥリアンに師事した寺原伸夫は、その思い出を綴った『剣の舞 ハチャトゥリヤン 師の追憶と足跡』(1983年)のなかで、『ガイーヌ』について作曲者のこんな証言を書き留めている。
「初演の前日になって、どうしてももう一曲新しい舞曲が必要だということになった。午後三時からとりかかったのだが、真夜中をすぎても手がかりがつかめない。時間だけがむなしく過ぎていく。私はさまざまなリズムを指で机をたたいて試してみた。何か新しいリズム、剣をもって舞うにふさわしい激しいリズムが必要だった。……明け方近く、ついに新しいリズムがみつかった。それが『剣の舞』だ」
この名曲を、切羽詰まったあまり、たったひと晩でつくりあげたというのである。にわかには信じがたい話だ。わたしなりに思いめぐらしてみると、こうした事情ではなかったろうか。前述したとおり、ハチャトゥリアンがこのバレエ音楽に取り組んだのは第二次世界大戦のさなか、ソ連(ロシア)では「大祖国戦争」と称して、ナチス・ドイツとのあいだで約2000万人の犠牲を出す壮絶な闘いが繰り広げられていたわけで、かれもまた尋常ならざるナショナリズムの炎に煽られていたことだろう。そのエネルギーが、いかにも社会主義の教訓劇めいた面白くもおかしくもないバレエ作品に力強い音楽を与え、ひいては最後の瞬間に『剣の舞』をもって完成させる成り行きへとつながったのに違いない。
さらに、原動力はそれだけではなかったらしい。寺原は同じ著作で、ハチャトゥリアンの日常におけるこんなエピソードも伝えているのだ。
堂々たる体躯、エネルギッシュで多血質なハチャトゥリヤンはもちろん健啖家であった。ただ食べるだけでなく、みずからも好んで台所に立って料理の腕をふるった。
――料理はオーケストレーションみたいなものだ。
というのがハチャトゥリヤンの持論だった。〔中略〕
――もし作曲家にならなかったら、私は果物屋になったに違いない。
と言ってみんなを笑わせた。
ここには、まるで幼子のように食いしん坊で、溌剌たる笑顔と生気にあふれた作曲家の姿がある。すなわち、二度の世界大戦を経験した20世紀にあって、ハチャトゥリアンという天衣無縫のパーソナリティを介して、人類の負わされた底知れぬ「死」の絶望と、果てしない「生」の希望とが、交錯しあいながら奔流となって音楽へと注ぎ込んだことにより、世界じゅうの人々を鼓舞してやまない『剣の舞』が誕生した。わたしはそんな仮説を立ててみたのだが、どうだろうか?
なお、この曲に最も興奮させられるのはおそらく、ハチャトゥリアン自身が1954年にイギリスでフィルハーモニア管弦楽団を指揮したレコードだ。なりふりかまわず猛然と驀進していく演奏には開いた口がふさがらない。