アナログ派の愉しみ/音楽◎ワーグナー作曲『ニーベルングの指環』
15時間をかけて
世界のカタストロフに立ち会う快楽
人類の音楽史が生み出したもので、最大の規模を誇るのは『ニーベルングの指環』だろう。ワーグナーがみずから著した台本に26年の歳月をかけて作曲したそのオペラは、『ラインの黄金』『ワルキューレ』『ジークフリート』『神々の黄昏』の4部から構成されて、上演に通常4日を要し、演奏時間は正味で計約15時間におよぶ。
キリスト教以前のヨーロッパの神話をもとに、主神ヴォータンと娘のブリュンヒルデ、孫にあたる人間界の英雄ジークフリートの三者と、敵対するアルベリヒらとの権力闘争を軸として、世界のカタストロフが描かれる。この途方もないオペラに関して、かつてドイツのメディアが、もはや自国でもほとんど顧みられないのに、日本には少なからぬ愛好者が存在して、かれらは「キチガイ」と呼ばれている、と伝えたことがあった……。
そんな愛好者のひとりであるわたしにしても、これほど長大な作品をおいそれと聴き通せるものではなく、やがて退職したら堪能しようとCDやDVDを買い集めていたところ、安倍内閣の「一億総活躍社会」政策により就労期間が延長されて悠々自適がいつ訪れるものやらわからず、ここに一念発起して、手元のソフトをたて続けに視聴することにした。およそ1年がかりで向き合った13種の『指環』を、自分なりの評価の印をつけて列記しよう。
◎フルトヴェングラー指揮/ミラノ・スカラ座(1950年)
◎クラウス指揮/バイロイト音楽祭(1953年)
△カイルベルト指揮/バイロイト音楽祭(1955年)
○クナッパーツブッシュ指揮/バイロイト音楽祭(1956年)
○クナッパーツブッシュ指揮/バイロイト音楽祭(1957年)
◎クナッパーツブッシュ指揮/バイロイト音楽祭(1958年)
○ベーム指揮/バイロイト音楽祭(1966-67年)
◎ブーレーズ指揮/バイロイト音楽祭(1980年・映像)
△サヴァリッシュ指揮/バイエルン国立歌劇場(1989年・映像)
○レヴァイン指揮/メトロポリタン歌劇場(1990年・映像)
○バレンボイム指揮/バイロイト音楽祭(1991-92年・映像)
◎ツァグロゼク指揮/シュトゥットガルト州立劇場(2003-03年・映像)
△ティーレマン指揮/バイロイト音楽祭(2008年)
すべてライヴの記録だ。どこかを部分的に取り出して楽しむぶんにはセッション録音でもいいけれど、長丁場を一気呵成に聴き通すためには、ライヴならではの自然な呼吸の起伏が必須の条件と思い知らされた次第。わけてもクナッパーツブッシュ指揮/バイロイト音楽祭(1958年)の、『ラインの黄金』の不気味な重低音の開始から、『神々の黄昏』の悲壮美きわまるフィナーレまで、巨大なクレッシェンドを屹立させていくさまは人間業とは思えないほどだ。
初めて作品に触れてみようとおっしゃる方には、そのクナッパーツブッシュがウィーン・フィルを指揮した『ワルキューレ』第1幕の録音(1957年)が最適だろう。登場人物は3人だけで、ストーリーもわかりやすい。幼時に生き別れになった兄と妹が再会し、深夜、そうと知りながら愛の衝動のままに交わってしまう(ふたりはこのあと神に罰せられるので、ご安心を!)という禁断のドラマが、生々しい音のうねりのもとで再現されていくのだ。これを聴くたびに、わたしはいまもこの歳にして下半身が妖しく反応しはじめるのをどうしようもない……。
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