アナログ派の愉しみ/音楽◎ショパン作曲『練習曲集』
それは一度かぎりの
「人間離れ」を記録したものか
「人間離れ」――。そんな表現がぴったりくる。イタリアのピアニスト、マウリツィオ・ポリーニがもう半世紀前に演奏したショパンの『練習曲集』(1972年)だ。
1942年ミラノ生まれのポリーニが、18歳でショパン・コンクール優勝後、さらに研鑽を積んで、30歳のときに発表したのがこの録音だ。正確無比という言葉では追いつかないほど、強靭な打鍵で隅々まで磨き抜かれた音の小宇宙には、われわれの聴覚を刷新するほどのパワーがある。まさに超高層ビルが聳え立つ現代の都市文明にふさわしい響きなのかもしれない。それは、コルトー、ルービンシュタイン、ホロヴィッツ、フランソワら、往年のショパン弾きたちが紡いできた演奏史とはっきり断絶を示すものだった。
この練習曲集とは、作品10(出版1833年)と作品25(同1837年)の各12曲のセットを指し、そこには「別れの曲」「黒鍵」「革命」「蝶々」「木枯らし」……といった愛称で知られる有名曲が含まれている。ショパンは18世紀のバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を手本にしたり、同時代のパガニーニのヴァイオリン曲に刺激されたりして、10代の終わりから着手したらしい。いわば青春のメモリアルなのだが、しかし練習曲と呼ぶには芸術的感興にあふれ、同時に高度な技巧が要求されるため、これらの曲の制作意図についてはかねて論議の的となってきた。
音楽評論家・遠山一行はこの練習曲集に注目した論考のなかで、ショパンの楽曲についてこんな疑義を呈している。「自分の指の下で歌う膚(はだ)ざわりのよい抒情に酔っている時に、やがて演奏家を襲う疑念の深さを私は想像する。自分がひいているのは果して何なのだろう。この美しいメロディは一体何なのだろう。私はいま何をしているのだろう。そうした疑いにとりつかれた時に、彼は恐らくその音楽をひきつづけるほかない。この音楽がすべてのピアニストによってひかれているのは、そこに捧げられた信頼のためではなく、むしろ終ることのない不安のためだという想いを私は払いのぞくことができない」。
ポリーニの演奏も、こうした文脈から捉えることができるのではないだろうか。つまり、研鑽に研鑽を積み重ねて「終ることのない不安」と格闘しているうちに、みずからもそうと気づかぬまま一線を踏み越えてしまった、と。そして、他のピアニストばかりでなく、ポリーニ自身、この『練習曲集』の完成度を再現できないまま今日に至っているように見受けられる。一度かぎりの「人間離れ」と形容したくなるゆえんだ。
ついでながら、わたしはもうひとつ「人間離れ」の記憶がある。ちょうどポリーニの演奏に圧倒されていたころ、モントリオール・オリンピック(1976年)でルーマニアの14歳の女子体操選手、ナディア・コマネチが披露した段違い平行棒と平均台の演技だ。テレビの前で、そのあまりにも精密な動きに、まるで人類が新たな進化を遂げたかのような感覚に打たれたことを思い出す。ピアノと体操――。いずれも人間の身体による表現が、第二次世界大戦からひと世代が経過した1970年代のヨーロッパで一瞬の突然変異を見せたのだろうか。それ以降、音楽もスポーツも技術的な革新には目覚しいものがあるけれど、「人間離れ」と出会った覚えはない。
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