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アナログ派の楽しみ/スペシャル◎中曽根康弘の「フクロウ」

わたしが出版社で仕事をしていたころ、心に刻まれたエピソードをお伝えしたいと思います。もちろん、記憶にあるとおりに書くつもりですが、文章責任はすべて当方が負うものとご承知ください。また、敬称略とさせていただきます。

わたしが雑誌編集者になったのは、中曽根康弘が首相として絶大な威勢をふるっている時期でした。内政では「戦後政治の総決算」を標榜して靖国神社公式参拝、防衛費「1%」枠の撤廃、国鉄・電電公社・専売公社の民営化(現在のJR・NTT・日本たばこ)を断行したり、外交ではアメリカのレーガン大統領と「ロン・ヤス」関係を結ぶ一方、「(日本列島は)不沈空母」「(黒人などの)知的水準」発言で物議をかもしたり、これほどひっきりなしにニュースを振り撒く首相というのも前代未聞だったでしょう。

そこで、わたしは中曽根首相へのインタビュー取材を企画して、首相官邸に申し入れたところ、数日後、全国紙の政治部記者から電話がかかってきました。内閣総理大臣の発言は国民にとって重大な意味を持つ以上、新聞やテレビが伝えるべきで、雑誌などの出る幕じゃない、とのたまうのです。いまと違って当時は新聞・テレビが特権的な地位を占め、とりわけその国会記者クラブの専横ぶりについてわたしも聞き知っていたものの、ここまで露骨な態度で恫喝してくるのには呆れてしまいました。さぞや出版社のあいだには憤懣が鬱積していたものと思われます。

そんなある日、突然、雑誌協会を通じて、中曽根首相から出版各社の政治担当者と懇親の席を設けたいという連絡が入りました。わたしは耳を信じられず、まさか、あの記者クラブの連中が黙っているものか、と疑いながらも、さっそく手を上げたことは言うまでもありません。当日の夜、赤坂の料亭に出かけてみると、およそ40人ばかりの同業者が揃い、それぞれに割烹料理の膳があてがわれました。やがて定時より少し遅れて、中曽根首相そのひとが長身の姿を現したのです。

「本日はお集まりいただきありがとうございます」

ふだんテレビの画面越しに聞くよりもずっと静かな声でした。そして、みなさんとはなかなかお会いできないけれど、自分は出版というものを非常に大切に考えている、これからもよろしくおつきあいを願いたい、と挨拶したのち、ビール瓶を手にして席をまわり、ひとりひとりに膝を突いて、わたしのような若輩のグラスにまで黄金色の液体を注いでくれたのです。

いやはや、さすがに桁外れの人物だ、と舌を巻きました。いまさら出版社を持ち上げたってなんのメリットもないはずなのに、ここまであっけらかんと胸襟を開いてみせるとは! わたしはつくづく感心したあまり、以来、雑誌の誌面では相変わらず中曽根政治を攻撃する記事が幅を利かせていましたけれど、なに、あのひとにとっちゃ屁でもないのだろう、との思いが渦巻いていました。

その後、首相を退任した中曽根とは何度か接する機会がありましたが、最後に対面したのはあの懇親会から四半世紀が経過した時分でした。確か、かれが所長をつとめる世界平和研究所がらみの案件で、先方からの求めに応じて千代田区平河町の砂防会館にあった事務所へ出向いたと記憶しています。だだっ広い応接室のソファで待たされていると、秘書がやってきて、もう中曽根も歳ですからね、あまり難しい話はできませんよ、と囁いたあとで、こうつけ加えました。

「最近はフクロウの絵ばかり描いているんです」

なるほど、周囲を見まわすと、いくつもフクロウの絵が壁に張りだしてあります。マジックインキを使ったのでしょうか、どれもこれも同じ絵柄のかれらがギョロリと目を剥いて、こちらを睨みつけてくるかのように感じられて、ひどく落ち着かない気分になりました。このとき中曽根はすでに90代に達して、生存者最高位の大勲位菊花大綬章も授与され、まさしく功成り名を遂げた歴史的な人物として晩年を過ごしていたはずです。そのかれが一体、どんな心境でフクロウの絵ばかりを描きつづけたのでしょうか? わたしはいまでもふと思いを馳せたくなるのです。



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