アナログ派の愉しみ/本◎夏目鏡子 著『漱石の思い出』
夫人の目に映った
文豪とおならの関係とは
わたしが夏目漱石の『草枕』(1906年)を手に取ったのは大学受験のころだ。だれしも覚えがあるに違いない、あの不安と焦燥に苛まれる時期に、たまたまこの文庫本のページを開いたとたん、冒頭の「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」の文章に出会って、いっぺんに目の前の霧が晴れる思いを味わった。とはいえ、そのあとの内容は大方忘れてしまったのだけれど、もうひとつだけはっきりと記憶に刻まれた個所がある。
五年も十年も人の臀(しり)に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えば猶々云う。よせと云えば益々云う。分ったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうして夫(それ)が処世の方針だと云う。
近代文学史上に聳え立つ文豪の、おならをめぐる演説に10代のわたしは面食らった次第だが、いま読み返してもここまで執拗な筆致には感嘆を禁じ得ない。終生、神経症に由来する胃腸の疾患に悩まされた漱石は、それにともなう放屁の現象によほど辟易していたのだろうか。そして、わたしも会社勤めをするようになると、確かに背後から屁を勘定して「いくつ、ひった、いくつ、ひった」と言い立てる輩の存在を目の当たりにして、そのたびに漱石の仏頂面が脳裏をよぎったものだ。
ところが、漱石と屁が必ずしも緊迫した関係だけではなかったらしいことを教えてくれる記録がある。没後に、弟子であり女婿でもあった松岡譲の求めに応じて鏡子夫人が家庭生活の内実を語り下ろした『漱石の思い出』(1929年)だ。このなかで、43歳の漱石が胃潰瘍の転地療養先で大量の血を吐いて危篤に陥った「修善寺の大患」からようやく回復し、束の間の小康状態にあったころのこんなエピソードが紹介されている。
少々きたないお話になりますが、このころ胃は悪し、肛門は悪しで、よくガスが出るのですが、それがまことに妙な音をひびかせます。中村(是公)さんでしたか菅(虎雄)さんでしたか、どなたかがおいでになっていてその奇態なおならをききつけて、まるで破れ障子の風に鳴る音だとかおっしゃったので、それから破れ障子はおもしろい、まったくそのとおりだというので、落款をほらせる折りに「破障子(はしょうじ)」というのをたのんで、自分の書に捺していました。
どうやら、九死に一生を得た漱石は、身辺で屁の具合に聞き耳を立てる者どもにも心安んじて接したばかりか、かれらの見解を受け入れておのれの屁をトレードマークにするゆとりさえあったようなのである。さらに、夫人の報告は続く。
これで思い出しますのは、もう少し後のようでしたが、子供たちがいろは歌留多を取っていますと、そのお仲間に入ります。みんな目が早いのにこのお父さんいっこうに取れません。ただ「へをひって」という札と「あたまかくして」という札との二枚きりがお得意で、それを自分の前にならべて睨めっこしていますが、それさえよく子供たちにぬかれて凱歌をあげられておりました。
もはや『草枕』でクダを巻いた固陋ぶりはすっかり影をひそめ、幼い子どもたちといっしょに自分の屁をもてあそんでいる文豪の姿が微笑ましい。まさしく、晩年に到達したとされる「則天去私」の境地と言ったらいいだろうか。
こうした記録を残したこともひとつの要因となって、漱石を崇拝する人びとから鏡子人は「悪妻」のそしりを受ける仕儀となったが、とんでもない、夫人のまっすぐな眼差しが捉えた日常の漱石の立ち居振る舞いは、ことによったら本人の作品以上にその人となりの魅力を伝えて余すところがない。そして、わたしも昨今、胃腸薬を常用するようになってとみに放屁の頻度が増してきただけに、漱石夫妻に学んで、こうした事態を笑い飛ばす磊落な精神を養いたいと願うのである。
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