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道徳感情論 第一部 第一篇 第二章に対する分析
この章の初めの方でスミスは、「人間の感情を演繹するのは困難である」との見解を示した。この当時の知識人には、「自己愛をある程度に精緻すれば、人間の感情をすべて演繹できる」と考えていた者もいた。演繹的な理論とは、一般的な規則などから大前提を立てて、それを土台に小前提を乗せて、条件を決めた上で結論を見出すことである。これは、「a=b」と「b=c」が成立する事例は、「a=c」であると決めることができる。このように演繹法は、客観的に正しい前提を使って理論立てするので、複雑な題目でも結論を出すことが可能になる。本書から引用すると、「その主張によれば、自分の弱点と他人からの助力の不足を自覚している人物は、自分自身の激情を他の人々が受け入れたと気づいたとき、同時に彼に必要な助力が保証されていることになり、いつも大喜びするという。それと逆の事態に気づいたとき、彼らは受け入れられていないと確信し、いつも悲観にあけ暮れる(著者アダム・スミス、翻訳高哲男、2013年、道徳感情論、P38〜39)」ということになっている。しかしスミスは、こうした場合、快楽にしても苦痛にしても、極めて短期的にときどき感じる程度なもので利己的であり、それは演繹できないと考えた。我々は普段は「演繹」という言葉を使わないため、読者の多くは上記の意味が今ひとつ分からないだろう。私もそう思う。演繹とは、複雑な題目を分かりやすく簡単にできる手法だ。では共感における快楽と苦痛は、どうして分かりやすく精緻するのが無理なのか?人の心境は複雑で難しいといえばそれまでだが、本書はその難解さを分析に着手している(もっとも、それでも非常に難解だが)。
我々は一つの映画などを繰り返し見ていると飽きてしまう。そうなるともう楽しむ気持ちはなくなる。だが、その状態でも他人に見せて喜びを感じることがある。その人が楽しんでいるように見えたら、我々は心地よい気持ちになる。逆につまらなそうだったら、まず苛ついてしまうはずだ。そうなると事情としては、飽きる前と変わりないように見える。しかし、自分の快楽や喜びに対しての他人の共感はそれを活気づけて、それを高めるが、自分の辛さや悲嘆に対する他人の共感は、それを焚き付けることはできて、喜びを自分にもたらすことはない。ただし、それが結果として、心苦しさを軽減することはできるとスミスは述べる。彼は、快楽を伴う激情よりも、不快感を伴う激情の方がある意味重要だと考えた。
これはだれでも経験があることだと思うが、だれかに感謝している気持ちに共感されないことで、怒りを覚える事例はあまりないが、なにかひどい目に遭わされたことを他人から全く共感されなかったら相当辛くなって、その相手にもかなりの怒りを覚える事例は多いだろう。場合によっては、とんでもない大事件の原因にもなり得る。だから我々は激しい怒りを抱えている人に対しては、あえて形だけ共感した態度をとることも珍しくない。
「共感における快楽と苦痛を、演繹によって分かりやすく精緻するの無理筋だ」という見解は、上記に書いたその性質の違いにもあるのかもしれない。