近代経済学の限界について(新古典派経済学編①)
私がいた大学の経済学科は、ミクロ経済学とマクロ経済学、マルクス経済学や計量経済学も履修できた。ちなみに計量経済学以外は必修科目だった。私は全て履修したが、卒論にこれらの理論を分析のルーツとして用いたことはない。農業系の大学だったからだと思うが、近代経済学やマルクス経済学の理論を、そのまま用いて論文を書く学生は本当に少数派であった。その手の分野を専門としてる教授はもちろんいたので、そのゼミの学生はそうした理論を使うパターンが多かったが。
私の個人的な見解としては、新古典派でもアルフレッド・マーシャルの経済学原理などは、今でも読む価値はあると思う。もっというなら、宇沢弘文先生の「宇沢2部門モデル」は、全ての経済学徒に対する必修科目のそれに含めた方が良いはずだ。
ただし残念ながら、主流派の経済学界は寛容さが絶対的に不足して、異端派や他分野の学界の意見を蔑ろにしがちである。もっとも、個人レベルではそうでない主流派経済学者もそれなりに存在する。だが全体的には、未だに極めて頑固で融通が利かない学界だ。全ての経済学者が、「近代経済学的なモデルはあくまでもモデルであって、現実は異なるところもある。だから経済学的なモデルばかり信じるのは間違いである」と考えているのなら、とりあえず問題はない。しかし実際はそうではなく、現実離れしたモデルなどを、真実だといい張る者が彼らの中には極めて多い。その思想が世間一般をある意味支配している。
その根拠の一つとしては、「自由貿易が善で保護主義が悪」という思想体系が、世間一般に深く浸透していることが挙げられる。農林水産業や中小企業が大事な地方の新聞紙でさえ、自由貿易主義そのものは滅多に批判しない。もっと正確にいうなら、自由貿易という概念自体は批判しないで、TPPのような自由貿易協定には懸念を示したりしている。
地方紙がこのような矛盾した態度を取るのは、「自由貿易が善で保護主義が悪」だと刷り込まれているからだ。例外は東京新聞くらいだろう。
自由貿易の理論といえば、リカード論とそこから発展させたヘクシャー=オリーンの定理が有名である。この定理は、「各国の有する労働や資本の比率と各国の各産業が必要な労働や資本の比率を比較して、各国が適合性が最も高い産業に特化することで比較優位ができる」というものだ。
しかしそれを成立させるためには、いくつかの条件を満たす必要がある。
①世界には、2種類の資本と労働、2つの国、財が存在している。
②財の生産量に関係する規模が、収穫不変であること。
③複数のそれぞれの国が、「完全雇用の状態であること」
④資本と労働が、自由に国内の産業間を移動するのが可能なので、それにかかる費用がない。
⑤生産要素(土地、労働、資本)は国際的な移動がない。
⑥両国の資源賦存度は、相対的には違う。
⑦両国の各個人における効用関数は、全く変わりない。
これらの条件を満たすのはいかに難儀はいうまでもない。個人的に最も気になっているのは④で、この条件を満たしているということは、例えば私が離農したらすぐ別の職業に就ける状況になってしまう。あまりにも非現実的だ。
こういう無理筋極まりない理論が、自由貿易主義の根幹になっている。しかもそれが、世界的にも世間一般的にも支配的な思想体系になって、我々は操作されている。だから歪な自由貿易主義とそれを蔓延られた主流派経済学は、もっと厳しく批判しなければいけない。