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道徳感情論 第一部 第一篇 第三章に対する分析

 この章では、他人の心的傾向が、適合するものなのか不適合なものを判断する手段を追求している。非常に分かりやすい単純な説明が続いていく。例えば、同じギャグを自分と同様に笑う人は、自分のそのときの笑う態度を否定できない。怒りや悲しみでも同じことがいえる。もっと詳しくいうと、同じ程度の反応が自分と同様だった人は、自分のそのときの反応は否定できない。これが同様でなかったら、不適合なものと見なされる。ようするに例えば、他人が大して笑うことでもないと思っているのに、自分がやたら大笑いしたら、周囲から引かれたりする。スミスの見解としては、「他人の判断を是認することは、その判断を受け入れるということであり、他人の判断を受け入れるということは、それを是認するということである。あなたを確信させる同じ主張が、私に同様な確信をもたらせば、私は必ずあなたが確信する主張を是認するだろう(著者アダム・スミス、翻訳高哲男、2013年、道徳感情論、P45)」というものだった。当たり前といえば当たり前なことではあるが、これが道徳の研究に必要だった。
 しかしながら、共感が一致していないにも関わらず、是認を得られているように見える事例もある。我々は経験を通して、人の表情や態度、言動に対する一般的諸則を構築していく。本書では、「父親が亡くなったことで深刻な表情を浮かべている人物が目の前を通っているが、我々は彼のその事情を知らない場合」を例えに出している。我々は事情を知らない以上は、彼に対して真の一体感は持てないだろう。だが大きな不幸にあわれた人たちが、どのような表情を浮かべるかを、我々は経験から知っている。それが一般的諸規則となっていくワケだが、元々の土台は事情を知ったときに生じた共感にある。だから厳密には、共感の一致からはじまっているので、完全にそれなしの是認はあり得ないだろう。

 道徳感情論が公表される以前は、恐らくスミスが主張するように、人間の心的傾向がもたらす趨勢のことしか、ほとんど研究されていなかったと思われる。つまり、人が笑ったり悲しんだり怒ったりする原因と、そのとき現れた結果としての心的傾向との間を分析していくという発想が、当時の哲学者には乏しかったのである。ここでいう「間」とは具体的にはなにを指すのか?それは私が思うに次の章で触れていることで、人は何らかのことが原因で上記の激情が湧いてきたとしても、適合性を意識し調整した上で、それを表に出したりする。これは他者の存在があるから調整されることだが、「適合性を意識して調整する」ことが、ここでいうところの「間」なのだろう。