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アダム・スミスが生きた時代の経済と現在の経済との差異から、今の農業や農村の在り方を考える④

アダム・スミスは原則的に株式会社の設立は認めなかったが、いくつかの例外はあった。国富論によると、スミスが株式会社がやっても良いと思う事業は以下の4つである。

①銀行業
②火災や海難などに対する保険事業
③帆行に関する掘割や運河の建設とその維持
④大都市に水を供給する事業

スミスはこれら以外の事業は、株式会社がすることは合理的ではないと主張した。その理由は、この4つの事業は他のものと比べて効用が多大であることと、どうしても大きな資本が必要だからだという。
現代人からして見たら、経済自由主義者のスミスがこんな主張をするのは、とても奇妙なことだ。われわれの感覚で普通に考えたら、上記の4つ以外の事業が、株式会社でやれないなんて不便すぎる。そういった意味では、現代の水準ではアダム・スミスは経済自由主義者とは言い難いだろう。

スミスは株式会社の有限責任では、モラルハザード(倫理観や責任感の欠如)が発生して、会社の適切な業務管理が上手くいかないと考えた。また、株式会社の取締役や監査役は、依怙贔屓を回避するのが難しいので、他の製造業の妨害になる。株式会社は、道理を弁えた産業と利潤との中間に存在する比率(普遍的な産業にとって合理的で有効な勧奨になる比率)を乱してしまうとも、スミスは主張した。

この文書を読むと、モラルハザード以外はなにをいってるのかイマイチ分からないと思うが、国富論の株式会社についての記述(第五篇統治者または国家の収入について)を読むと、そのように書くしかない。

以下は自分なりの解釈である。

株式会社が取引先や賃金労働者に対して、依怙贔屓できるようになれるのは、有限責任ゆえに大量に資金を持てるからだ。現代は大企業の寡占が実際に存在するし、株式会社の力を使えば供給量を変えて価格に影響を与えることも可能だ。
もっと分かりにくいのは、産業と利潤との中間に存在する比率(普遍的な産業にとって合理的で有効な勧奨になる比率)だろう。「産業と利潤の中間」というのなら、労働や土地、原材料のそれが該当すると思われる。
前述した倫理欠如や依怙贔屓のことを鑑みるに、賃金労働者や取引先にとっても極力公平で、土地のような資源等も、無理や無駄が少なく有効に活用されている状態を、株式会社の存在は乱してしまうという意味なのだろう。

ようするにスミスが求めたのは、自由なだけではなく安定的な経世済民だったのだろう。売り手良し、買い手良し、世間良しなら誰もまず不満はあるまい。

しかし、時代が変わるに連れて株式会社の設立は当たり前になってしまった。それ自体はやむを得ないとしても、スミスの警鐘を蔑ろにした代償は大きかった。かつての世界恐慌の原因が、その当時の株式ブームにあったことは以前の記事で指摘した。
あのような現象は、条件にもよるとは思うけど、「株式会社の存在は、普遍的な産業にとって合理的で有効な勧奨になる比率を乱す」ことを証明しているといえる。

残念ながら、どんなに問題があっても現代社会においては、基本的に株式会社の存在は容認するしかない。

農業経済の観点からいうなら、スミスが問題視した株式会社相手に農家が取引する場合は、農業協同組合がないと対等に渡り合えない。また、農業法人の場合は、株主は原則としては、その農業地域から離れるのが困難な者に限定すべきだ。これは、スミスが批判した有限責任者の倫理欠如を補うための対応策である。

日本人の新古典派経済学者で、もっともアダム・スミスの経済学を学んだのは故宇沢弘文氏だ。宇沢先生はかつて、農業コモンズと呼べる「三里塚農社」を構想した。残念ながら実現には至ってないか。

これの想定された定款によると、社員は株式の所有を必要として、その株式は農社の承認がないと譲渡ができず、売却は不可能とするものだった(おそらく売却自体が原則禁止)。

こうした考案は確かにスミスの経済学を継承しているといえる。