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無課金(暇と退屈を埋める文学的⑧)

ゲームをする時、私には、「無課金」というポリシーがある。
ゲームは仕事ではなく、ゲームは役に立たず、暇つぶしであり、ゲームは後ろめたいものである、従って、それにお金を費やすのはよくない、というのが原初の考え方である。
そのように育てられた世代でもある。

しかし、「無課金ポリシー」は、それだけを根拠とするものではないな、と思う。

課金すれば簡単にレベルアップしたり、次のステージに行けたりできるところを、しない。
デイリーボーナスや○時間ごとのガチャなどを活用する。
毎日足しげくデイリーボーナスを受けとり、○時間ごとのガチャのためにタイマーをかけて、次のチャンスをものにする。
「無課金ポリシー」で縛られた私は、ゲームに生活を縛られていく。

安売りスーパーを徹底的に使おうとしたりするのと似ている。
広告に目を光らせ、1円でも安い時に買いに行く。
購入スタンプぎりぎりの値段で買っていき、毎日貯めていく。
広告を見れば、クーポンやサービス券がもらえるサービスで、○時間ごとにタイマーをかけて、クーポンやサービス券を発行してもらう。
スーパーに生活を縛られていく。

金銭の支払いではなくて、ゲーム上での肉体労働(無意味に繰り返すクエスト)や、頭脳労働(無意味に繰り返すミニゲーム)、精神労働(飽きても続けなければならない地獄)で支払おうとする。

仕事で肉体労働や頭脳労働や精神労働をしたら、金銭を獲得する。
その金銭をゲームに課金することで、ゲーム上での労働を減らすことができる。
しかし、そんな資本主義思考はしない、というのが「無課金ポリシー」である。

肉体・頭脳・精神労働でなんとかしようとする、この考え方には、破滅的な問題はあるのかもしれないが、自分の資本を削ることは、心地良いし、成長につながる。
自分の肉体や頭脳や精神を通すことは、少なからず「思い出(記憶)」に残るということである。
それが、生きているという証に感じられる。

課金して、上位や次のステージを手に入れたとする。
それは、「飽きる、退屈する」が、早く来るのではないかと予想する。
暇をもてあます。
充実していない。
生きているという証を手に入れられない。
課金して、上位や次のステージを手に入れることは、「暇と退屈」への対処法として、間違っていることになる。

塾や予備校に課金して有名大学へ合格後、燃えつき症候群になったり、大義を求めて新興宗教に走ったりする若者がいる。
自分の頭でしっかり考える、自分の足でしっかり歩くということをしないと、やがて自分を見失うことにはなりはしないか。

無課金というポリシー、ある種の教義、つまり無課金宗教も、これはこれで「楽しい」のであった。
「ブラック」だが「楽しい」。
「不自由」だが、それでこそ「熱狂」する。
ハマってしまう。
ここが難しい問題である。


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