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読書の価値(暇と退屈を埋める文学的⑥)

以前、ショーペンハウエルが、「読書は他人にモノを考えてもらうこと」といっていた、ということについて書いた。
読書は自分でものを考えない人がすること、というようなことだ。

『暇と退屈の倫理学』の「結論」に、他の考え方が出ていた。

論述を追っていく、つまり本を読むとは、その論述との付き合い方をそれぞれの読者が発見していく過程である。(…)論述の過程を一緒に辿ることで主体が変化していく、そうした過程こそが重要であるのだから。

『暇と退屈の倫理学』p393

小説も同じようなものである。
描写を追っていくなかで、そこに提示された世界(観)との付き合い方を、読者が発見していく過程である。
描写を一緒に辿ることで、主体が変化していく、そうした過程こそが重要である。

がしかし。
小説を読むことが、必ずしも変化に結びつかなければならない、と考えるのも、横暴な話ではある。
けれど、主体が変化しない、エキサイティングではない読書は、あるいは昔論じたことのある、「大衆文学」であるのかもしれない。
主体が変化する、それこそが、「純文学」であるのかもしれない。


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