記録してふりかえる(文学は心を扱う⑧)
前回の記事で、「文章の中に時代を閉じこめれば、それはすべて懐かしさをもって読み返すことができる」と書いたが、あらゆる記録は、その時代を閉じ込める。
メモでも、本に線を引いたり書き込みをしたり、すべての記録は、その瞬間を刻み込んでいる。
(だから為政者たちは記録を消去しようとするのだ。)
この頃では、デジタルで「ログ(記録)」が残る。
その一挙一動を、ウェアラブル機器が監視していたりもする。
でも、日記は、文章による記録は、ちょっと違った意味を持っている。
見えているもの、聞こえているものは、映像で録画して残すことができるようになった。
ドキュメンタリーでも、ただただカメラを回して撮る、というものがある。
解釈は、見る者にゆだねられている。(※1)
けれども映像ではなく、文章で、見えているもの、聞こえているもの、いや、現在進行形はおかしいな、文章とは一度、内側で咀嚼して、消化して、それから外側に出てくるものだ、だから「見たこと、聞いたこと」、すべて過去のこと、を、文章で記録することの意味。
それは、人間の内側、「心」が「感じたこと」を、記録するということかもしれない。
言葉については、例えば「熱い」という言葉を知らない人は、「熱い」という感覚がない、という哲学的な話がある。
心が感じていることを、的確な言葉に置き換えてやること。
それは、常に、文学創作者の仕事である。
※1
Youtubeでは、そういう編集されていない、生のままの映像が見られる。
撮りっぱなし動画 - YouTube
コロナ禍に、旅行に行けないから散歩動画を見ていたなあ。
【歩人】 ALTO channel - YouTube
pov walking - YouTube
POV(Point of view)=主観的な視点で撮影する手法だそうだ。
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