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文学=純文学?(文学とは何か⑤)
純文学と大衆文学について。
あるいは、芥川賞と直木賞について。
私が子どもの頃は、文学の世界は(文壇?)、しきりに、この二項対立に持っていきたがっていた。
純文学に権威を持たせ、大学で研究対象とするためだったのか。
大衆文学はしょせんエンタメ、良質な文学とは違うと言いたかったのか。
芥川賞=純文学は、文学的な革新性や独創性を重視し、
直木賞=大衆文学は、エンターテイメント性や読者の共感(売り上げ)を重視する。
私が親しんできた文学は、どちらかというといわゆる純文学のほうだと思う。
芥川龍之介、太宰治、村上春樹、村上龍、吉本ばなな、が、中高生時代の私の読書で、私を形作った読書だった。
ああでも、影山民夫さんの『遠い海から来たCOO』も大切に読んだなあ。こちらは第99回直木賞受賞作。
もちろん芥川龍之介自身は芥川賞を受けていないし、太宰も村上春樹も吉本ばななも受賞していない。
村上春樹は『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』が候補作。
吉本ばななは『うたかた』が候補作らしい。
(ところでこのように語る時、時々敬称略となってしまうことをお詫び申し上げます。このnoteでは、できるだけ敬称をつけて書いてきたと思うのだけれど、文学史上の、とか、自分史上の、とかいう感じで語る時、敬称は略したほうが良いように思われる。この感覚についても、考えていくのに充分面白い題材になると思うのだけれど、それは多分その人個人への尊敬や愛情の念が含まれるか、客観的事実を目指しているか、文豪と呼ばれるくらい過去の人になったか、みたいなことだと思うのだけれど。)
芥川龍之介の大ファンだった太宰治。芥川賞が欲しすぎて驚きの行動に…/文豪春秋① | ダ・ヴィンチWeb
では、純文学と大衆文学の境目は何か。
ベストセラーになった『ノルウェイの森』は、純文学なのか、大衆文学なのか。
松本清張は純文学なのか、大衆文学なのか。
中間小説というものもあったらしい。
食い詰めた純文学作家に、エンタメ小説を書かせてみていたらしい。
昔、直木賞はミステリー、ファンタジー。SFなどを「文学ではない」として、選考対象からはずしていたらしい。
理系、文系もそうだが、ともかくそうやって分けたがるのがいけない、という向きもある。
文学とは何か。
自分の中に、やがてひとつの軸のようなもの、価値体系のようなものをもつこと、ものさしをもつことそれ自体が、重要なのではないか。
当人にとって、何が文学であるのか、ないのかは、ものさしが使えるようになっているのなら、重要ではない。
結局、読み手の側の問題。
エンタメだろうが、思慮深く読めば、純文学たりうる。
私の思う「文学的」の指す「文学」は、「思慮深さ」を手伝ってくれるもの、か。
マンネリやパターン認知は、「ただ消費している感覚(浪費)」と感じて、心をなくす。
心をなくさず、人と触れ合いたい。
思慮深くあると、心をなくさず、やさしくあれる。想像力を持ち続けられる。血の通った教育や政治やサーヴィスができるということ。擦り切れる事なく、うむことなく、心空々しく上滑りする事なく、人と向き合う事。
コミュニケーション?
他人を思いやれる、半身社会、そういう環境を目指すということ。
自分を切り離さずに、主観的に、人間というものを、冷静に、しかし客観的に見つめられている文学こそが。