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テクストと向き合おう
なんと大学に入って2年の時が過ぎようとしています。私は漠然と哲学だの社会学だのに興味を持って入学し、紆余曲折しながら哲学専攻に進んだわけですが、Twitterで知り合うひとたちを見ているとみんな自分よりずっとたくさんの本を読んでいて、語学ができて、日々恐縮するばかりであります。
勉強していく中でひしひしと感じることですが、私は、西洋哲学を勉強することの難しさはシンプルにその歴史の長さだと思っています。哲学というのはそれは長い歴史がある。そして、西洋哲学を勉強しようと思ったら、過去にどのような思想が展開されたのかというのは把握していなければならない。ハッキリ言って、カントやヘーゲルがわからないで現代思想なんかわかりっこないのです。だから単純に学ばなければいけないことが多いのです。内容なんか別に大した問題ではないでしょう。別に哲学書を読むのに特別高い知能指数が必要だとは私はまったく思いません。
西洋哲学の営みというのはその性質上、過去の哲学者への、ほとんど無限に反復する応答です。それと同時に、時代に対する応答でもあります。私たちは過去の著作だけでなく、その当時の時代背景にも気を配らなければならない___もちろん、現代で「哲学をやる」のであれば、現代を取り巻く状況にも気を配らなければならない。やっぱり全てを勉強せんといかんわけですよ。できる限り全てを!
さて、もちろん哲学の世界に足を踏み入れたからには、われわれは当然「哲学をやる」ということを目指している。「勉強」から一段ステップアップしたい。とは言っても、やることは結局ただ一つだけです。「テクストを読む」!結局のところ哲学の依拠するところは言葉しかない。したがってわれわれの営みは全部、言葉の上での格闘に収斂していくわけですね。
大切なのはテクストとどう向き合うか、これであります。昔ながらの人文系マッチョおじさんは「学部生までに岩波文庫くらい全部読んでおきなさい!」とか言いやがります。私はぜんぜんそういうのには納得しません。「全てを勉強しなければならない」とか言った手前矛盾するように思われるかもしれませんが、こういうことを言う連中は岩波を一瞥しただけで「わかった」気になってるだけなのであります。「哲学をやる」のであれば、私は流し読みで岩波を全巻読むより、純粋理性批判を10回読み直すほうがよっぽどためになると思います。というのも、哲学書というのは概して、「読んでわかる」とかそういう類のものではないからです。考えてもみてください。読んで「わかる」とか「わからん」とかそういう類の文章であったら、なぜ何百年も、何千年も昔のおじさんの書いた文書がいまでもちまちま読まれているのでしょうか?なぜ未だに多くのおじさんたちが人生をかけて血眼で解釈に励んでいるのでしょうか?それはもちろん「何言ってるか全然わかんない」からでありますが、テクストそれ自体に驚くほど豊かな「読み」の可能性が潜んでいるからに他なりません。それがほとんど「創造的誤読」だったとしても_____やはり「読み」のひとつなわけです。
われわれは、難しい本を読んでなにか「理解した」気になるとき、しばしば次のような言葉を口走ります…「要するに」。「この一文ってどういうことなの?」「…要するにこれは〜ということなんだよ」といったような会話はよく見られることでしょう。しかし、これは「哲学をやる」うえで避けるべき態度だ。われわれはむしろ「要するに」という度に失われてしまうものに気を配らなければならない。要約からこぼれ落ちてしまうものに…あらたな「読み」の可能性が潜んでいるに違いない。
思えば、高校での倫理の教科書なんか「要するに」の連続なわけです。解説書の類なんかもそう。突き詰めれば翻訳だってそう。哲学の研究者が「原文」にこだわるのは、けっしてなにか日本人の被支配者しぐさとかインテリの下らないプライドとかそんなんじゃあないんですよ。…そうかもしれないけどさ。とにかく!われわれが「テクスト」に本気で向き合うのであれば、この要約を拒否するような残滓に注意を向けねばいかんのです。そこからきっと新しい「読み」が…それは「創造的誤読」に過ぎないかもしれないが、しかしそれにしても現れ、そしてわれわれは「哲学をやる者」としての一歩を踏み出すはずなのだ。哲学徒よ、飛び立つミネルヴァの梟であれ!