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クイズ付き連作短編小説四部作(4)「わたしの《彼》はハ長調」


※小説の途中に「読者への質問」が挿入されます。

5年ほど前に書いたものです。
題名はラブコメ少女漫画風ですが、その中身はといえば老年恋愛SF(?)小説という代物。題名もクイズのヒントになっています(でもたったこれだけのヒントで正解できれば凄いレヴェル!?)
そして長い(11,000字くらい)。よほど暇で何も読むものがなくて、でも何か読みたいなみたいな時に読んでいただければ嬉しいです(^^)









 「わたしの《彼》はハ長調」

     マルティン☆ティモリ作


 【登場人物】

 ☆志芳(しほう)…「わたし(語り手①)」初老の女
 ☆阿見野(あみの)…「僕(語り手②)」初老の男
 ☆《彼》…人ではない「何か」




 わたしは見つけた。
 書き物机の中央にいつも置いてるノート、そのノートの新しいページに書かれていたのは《サヨウナラ》の文字…



☆ ☆ ☆



 【志芳(語り)】 

 朝、目覚める。そして、いつも思う。
 ああ、そうだった、わたしは老女だったんだわ、って。
 いいえ、まだまだ老女と言うほどの歳では無いのかもしれない…たぶん老女の入口あたり。でも眠りの夢の中では、わたしはいつも十七歳なのだ。
 手を伸ばせばパジャマの袖から覗くのは枯れ枝のような細い手首。
 年齢なんて気にしやしない、気にする必要もない。ムリに若く見せたりするのもイヤ。歳月はわたしを変えたりしない、変わっていくのはいつも世の中の方。だからそれを「老い」なんていう言葉で呼びたくはないわ!

 布団をはねのけ、勢いをつけてベッドを降りる。
 恒例のミックス野菜ジュースを口に含んで眺めた外は曇り空。雲の流れが速いのは台風が近づいているから。でも今日は阿見野(あみの)さんと会う約束の日だ。嵐が来たって会いに行かなくっちゃ!

 ミノさん(わたしは彼のことをそう呼んでいる)はわたしの年相応のボーイフレンドだ。彼と会うのは…2ヶ月ぶりになるのかな。若い頃に奥さんを亡くされ、そのあとはずっと独り身のミノさん。ひょろりと高い背に、いつも優しげな表情、かなり白くなってはいるけれどまだまだフサフサしている長めの髪。彼の家に行ったことはなくて、わたしの家に呼んだこともない。たまに喫茶店で会ってお話するだけ…


 ☆ ☆ ☆


 《スキダヨ》

 《ええっ?…もうっ、何言ってるのよ》

 《ダッテ、スキナンダモン》

 《でもあなた、わたしよりずっと年下じゃない》

 《ソンナコトナイサ、ジツヲ言エバボクハ、モウ百億年以上モ生キテイルンダゼ》

 《アハハハ、それはまた随分とお爺さんなのね!……ええ、わたしも…好き…好きよ…あなたのことが大好き!》



 ☆ ☆ ☆



 「どうかしましたか?」

 「えっ?」

 「何だか元気がありませんよ」

 「そうでしょうか」

 喫茶店のちいさなテーブルを挟んでミノさんと向かい合っている。
 わたしの返答に頷いたミノさんの視線が、一瞬、わたしの鎖骨のあたりをさまよう。今日は襟刳りの大きなシャツを着てきたのだ。

 元気がない…それはわたしが一番よく分かっている。でも希望がないというわけでもない。一縷(いちる)の望みってやつだけど。

 わたしは話を途切れさせないだけのために訊いてみる。

 「ねえミノさん、ミノさんは何か落ち込むようなことがあったとき、どうされてるの?」

 「んっ?僕ですか?何か辛いことがあったら?…そうだなあ、僕なら取りあえずは宇宙の始まりのことを考えますね」

 「えっ、宇宙の始まり…ですか?」

 「そう、宇宙って最近の科学では『無』から始まったって言われてるでしょう?だったら僕たちが今見ている現実は全部幻で宇宙全体も幻…宇宙は今もやっぱり『無』なんじゃないかってね。『無』つまりゼロ。だから辛い日をマイナスの日だとすれば、元のゼロの位置に戻すためには、いつかは必ずプラスの日がやって来なければならないはずなんだって。何しろ宇宙の総和はゼロなんですから!この世の出来事のすべては、結果的にはプラスマイナスゼロってわけなんです」

 ミノさんはいつだってこんな調子だ。ちょっと不思議な物言いの後に俯(うつむ)いてはにかむ笑顔はまるで少年のよう。わたしはそんなミノさんが好きだったんだと思う。いや、今も多分…好きかもしれない。
 喫茶店の大きな窓の外では、強風にあおられたヤナギの木が狂ったようにダンスを踊っている。


☆ ☆ ☆


 《ミノサンッテ誰?》

 《ミノさんは…阿見野さんよ、去年に知り合ったわたしのボーイフレンド。時々会ってお話しするの》

 《フーン、ソウナンダ。ジャ、モシモ、ボクガアンタニ、ソノミノサンッテ奴ニ会ワナイデッテ頼ンダラ、会ワナイデクレル?》

 《エエッ、いきなり何言い出すの!?》

 …わたしの夢の中に《彼》が現れるようになったのはいつの頃からだったろうか?たぶん半年前よりは後のことだったと思う。
 夢の中の十七歳のわたしに対して、《彼》は生意気だけどちょっとかわいい一学年下の後輩男子というシチュエーションで登場してきた。

 《あなたは?》

 《ボクハ、ボクダヨ》

 《名前、教えてよ》

 《サアネ、名前ナンカドウデモイイダロ…ン?ナニ怒ッタ顔シテンダヨ。了解、ワカッタヨ。ジャ、ボクノ名前、教エテアゲルネ。デモ簡単二ハ教エナイゼ、《ナゾナゾ》ニスルカラ解イテミナ…ボクノ名前ハネ…「車ノ骨」サ…アアット、ダメダ。ソレジャ「ホ」ノ音ガ余分ニナッチャウナ》


 …結局《彼》は名前を教えてはくれなかった。 



 夕焼け。夢の世界での学校からの帰り道、制服姿のわたしたちは人気(ひとけ)のない川岸の土手に腰掛けて、他愛ないおしゃべりを交わしながら、さりげなくお互いの体に触れたり軽いキスを交わしたりした。

 歳を取ってからだれもが思うことのひとつに、現在の分別のついた心のままで、もう一度若い自分に戻って新しく恋愛をやりなおしたいというものがある。そして、これは夢というものの不思議な性質なのだけれど、わたしは夢の中での十七歳のわたしであるにもかかわらず、意識は現実の歳を重ねた者のそれであった。すなわち《彼》が夢に現れて以後、わたしは自分の若い日々を、理想的な形で生き直していたということになるのかもしれない。

 いつしか《彼》は、夜毎(よごと)の夢に現れる様になった。

 幸せだった。

 わたしは眠りにつくのが楽しみでたまらなくなっていた。



 《ミノさんに会わないでって?》

 《ソウ、今ノアンタニハボクガイルカラ》

 《何言ってるのよ、ミノさんはわたしの大切なお友達よ。あなたなんて夢に出てくるだけで、全然現実の存在じゃないじゃないの》

 言ってすぐに、夢の中で「しまった!」と思った。強い言葉で言い返してくるのだろうと覚悟したが、《彼》はしばらく何か考えるような素振りをしている。そして次の朝、目覚めるととても不思議なことが起きていた。

 わたしが書き物机の上に置いている覚え書き用のノート、その新しいページに、

 《オハヨウ!ボクダヨ》

 …《彼》からのメッセージが書かれていたのだ。

 以来《彼》は毎朝そのノートに、自分が実在であることを証明するかのようにメッセージを残していくようになった。


☆ ☆ ☆


 窓の外はいよいよ風が激しい。

 ミノさんが言う。

 「さあ、今日はもうこのくらいで帰りましょう。台風はどうやらこの街を直撃するようだ」

 「あ、あの…これからわたしの家にいらっしゃいません?」

 「えっ!?」

 ミノさんは心底驚いた声を出した。

 「そ、それはちょっと…」

 「いえ、いいです。言ってみただけですから、わたし」

 わたしは素早く立ち上がった。
 テーブルにコーヒー代を置いてひとりさっさと店を出る。

 街路樹の葉が大きく風に揺れていた。
 雨は降っていない。
 背広を着た若いサラリーマン風の二人連れが、高いテンションで会話しながらわたしを追い越していった。嵐の中を仕事で動き回るのが、逆に面白くって仕方がないといった様子。

 と、

 「待って、志芳(しほう)さん!」

 背後にわたしを追ってくる足音が…



 ☆  ☆  ☆



 …《ボクノ名前ハネ、「車ノ骨」サ》…

 自宅の、わたしがひとり眠るベッドの斜め上の棚には、古くなって色のあせたクマのぬいぐるみが乗っている。
 フランネルで出来たぬいぐるみ…子供の頃からずっとその場所に置いてあった。
 いつ誰に買ってもらったものなのか覚えていない。
 そのぬいぐるみを抱いて遊んだ記憶もない。ただ、昔からそこに置いてあるだけ。
 《彼》がノートに文字を残すようになってしばらく経ったある日の朝、ふとそのぬいぐるみを見あげ、気づいた事があった。
 フランネル製のクマ…『ネルのクマ』
 そういえば、夢の中で《彼》が出してきた「名前当てのなぞなぞ」は確かこんなものだったわ……『車の骨』…クルマのホネ…そして《彼》は言ったのだった、

 《ア、デモ、ソレダト『ホ』ノ音ガ余分ニナッチャウナ…》

 (…そうか、そうだったんだ)

 わたしは想像してみる。夜明け前、クマのぬいぐるみが棚から下りて来て机をよじ上り、両手にペンをはさんでノートにメッセージを書いている姿を。その様子は滑稽なような不気味なような。

 いやいや、そんなバカなことがあるわけはない。《彼》はわたしの心が作り出した夢の中だけの存在なのだ。それが小さい頃から見慣れているクマのぬいぐるみに投影されたってだけのこと。わたしはきっと、夜明けが近づく頃、夢遊病者のように起き上がっては、無意識のままノートに自分へのメッセージを書いているんだわ。

 わたしは夢の中で訊いてみる。

 《…あなたって、クマさんだったのね》

 《???》

 《フランネルで出来たぬいぐるみのクマさん…あなたが出した名前当てのなぞなぞ、わかったわよ。「クルマのホネ」…あのときあなたは「ホ」の音が余分だって言った。だから「ホ」の文字を除いて残った文字を並べ替えれば「ネルのクマ」…そうよ、あれはアナグラムだったの。あなたはネルのクマさん、いいえ、本当はわたしの心の一部なのだけれど、少なくともあなた自身は、自分の事をぬいぐるみのクマさんって思いこんでいるんだわ》

 わたしの言葉を聞いて《彼》は、いかにも失望したという顔をする。 

 《チガウヨ》

 そして怒ったようにまくし立てた。

 《チガウンダ!チガウ!チガウ!チガウ!!!ボクノ正体ハソンナモノジャナイ。ボクハヒトツデアリナガラ無数ノモノノ一部。ボクハ男ダッタシ女ダッタ。少年ダッタシ老人ダッタ。アルトキハ画家、アルトキハ音楽家。人間ダッタ猫ダッタ。花ダッタ草ダッタ。大気ヲ漂イ海ニ溶ケテ貝殻ニモナッタ……ツマリボクハ……ボクハ……》

 目がつり上がり口元は醜く歪んでいる。そのときの《彼》の顔は最早いつものかわいい後輩男子のそれではなくなっていた。その口調の異常な激しさに夢の中のわたしは怖くなって耳をふさぐ。

 《やめて!もういいから!》

 …そんな夢から覚めての次の朝の事だった。
 明け方、夢うつつのわたしは、吐息と一緒に《彼》が体の外へと出て行くのを感じた。そして例のノートに書かれていたのは《サヨウナラ》の五文字。


 以来《彼》は二度と、わたしの夢に現れることはなかった…



 ※※※※※※※※

 読者への質問

 《彼》の正体とは何でしょう?

 ※※※※※※※※



 ☆ ☆ ☆




 【阿見野(語り)】

 …志芳(しほう)さんの家は、バス停を少し上った高台にある古い住宅地の端にあった。

 強風の中、バスを降り、坂道を登る。

 「あそこよ」

 志芳さんが指さす先にあるのは赤い屋根の小じんまりした平屋。
 と、突然の雷鳴とともに叩きつけるような雨が降り出す。
 強風にあおられての横殴りの雨では傘はほとんど役に立ちそうにない、僕たちは赤屋根までの数十メートルの距離を、出来うる限りの早足で駆け抜ける。
 ドアの前までたどり着き、志芳さんが急いで鍵を開ける。ふたりくっつくようになりながら三和土(たたき)へ体を滑り込ませホッと一息つくと、志芳さんは僕を見上げてゆったりと微笑んだ。
 大きな目を細めながら、閉じたままの唇の端を軽く持ち上げるチャーミングな微笑…僕は思う、娘時代の彼女はとりたててきれいという程ではないにせよ、きっと利発そうな容姿を持った少女だったんだろうなと。

 ドアの右手にあるスイッチをカチカチやった後、

 「点かないわ。停電してるみたい」

 言って志芳さんは、僕に靴を脱いで上がるよう促した。
 他の部屋は殆ど物置になっているからと通されたのは、入って一番奥の彼女が寝起きに使っていると思われる一室。明かりのない部屋の中は薄暗かったが、次第に目が慣れてきて内部の様子が見て取れるようになる。

 とても簡素な部屋だった。

 ベッドのそばに書き物机が置かれているだけで装飾的な要素は殆どない。そんな中、壁に設えられた棚の上にはぬいぐるみのクマが置かれている。少し意外に思ったが、色あせた古いものであるところから恐らく子供の頃の思い出の品でもあるのだろう。部屋の隅には大きな楽器ケースが立てかけられていた。

 「チェロ、弾くんですか?」

 「学生時代に部活で少し。でも今はあまりさわっていないの」

 言いながらくるりと後ろを向くと、志芳さんはいきなり着ていたシャツを脱ぎ始めた。

 「濡れたでしょ、さ、あなたも脱いでください」

 (む、これは…)

 瞬間、頭をよぎったのは昔の妻の事。だが、それは亡き妻の肌への郷愁であるとか、増してや後ろめたさなどというものでは全くない。感情を伴うことのない、ただ単に頭をよぎったというだけの気まぐれな意識の彷徨… 
 粗暴な性格だった妻とは折り合いがよくなかった。再婚しなかったのも、結婚生活などというものに何ほどの希望も持てなくなってしまっていたから。日常のこまごました雑事については、ずっと独り身を通している妹が、時々僕のところにやって来てはあれこれと世話を焼いてくれる。そんな生活に安住しながら僕は、もう何十年も気楽な一人暮らしを続けてきたのだ。

 と見るうち、志芳さんはシャツばかりでなく淡い色の下着までも外してしまっていた。露わになった上半身は痩せているとは云え、肩の線は女性らしい優しい曲線を描いており、薄暗い中、浮かび上がった彼女の背中の白さに僕の内部で久しく忘れていたものが高まってくる。ふるえる指でボタンを外すと、僕も着ていたシャツを脱ぐ。そして背後から彼女を抱きすくめた。
 志芳さんは一瞬、身体を固くするも、すぐに力を緩めたのが廻した腕を通し伝わってくる。その体勢のままで、僕は彼女のうなじにキスをする。

 一度、…二度、…三度、

 僕は思う。

 (ああ、そうだ、このひとときなんだ!この一瞬、この刹那!これこそが、やはり、僕が生きていることの証(あかし)なのだ!長年繰り返してきたお定まりの日常…慣れきった仕事、休日の散歩と読書、妹を伴っての年に一度の旅行も、何もかもがこの一瞬に比べれば何と無価値に思えることだろう!)

 戸外で風が唸っている。雨が激しく窓を叩く。今夜は帰れない、そんなことはここへ来る前から分かっていた事じゃないか!

 彼女をこちらに向き直らせさらに強く抱きしめると、控えめに凹凸(おうとつ)した身体が密着してくる。僕は感じる…湿気を含んだ髪の匂いと乱れた呼吸に合わせ上下している胸の双丘。今、僕の腕の中にいるのは歳を重ねた現在の志芳さんでありながら、同時に先に僕の想像の中に現れた利発な少女、そして僕の知らない二十代の、三十代の、四十代の志芳さん…その全てを包含した優しくて懐かしい肉体が今、僕の腕の中で生き生きと息づいている!



 ふたりして傍のベッドに倒れ込んだ。




 ゴウゴウと鳴って途絶えることのない風の音。



 何度も交わす口づけ、熱い息。




 突然襲い来る雷鳴、一瞬の閃光に青白く浮かび上がる彼女の裸身。





 もういちど、深いキスを。





 そして僕たちは………。











 ………知らない間に雷鳴は遠くなっている。僕は快い疲労とともに、眠りについた。



☆ ☆ ☆




 【志芳(語り)】 

 キッチンの方から、低く、冷蔵庫のモーター音が響いてくる。
 どうやら電気は復旧したようだ。

 台風は去りつつあった。

 ミノさんはわたしのお腹に腕を置き、額をわたしの肩にくっつけ眠っている。
 わたしは静かに目を閉じ、もう一度、身体に残る彼の感触を味わう。

 これはわたしの望んでいたこと。

 本当に? 

 今夜のことは、確かに《彼》を失った空虚感を癒してはくれたけれど…


 数日前の朝。わたしは久しぶりに気が向いて、チェロを弾いた。
 ミの音を出そうとD線に1の指(人差し指)を乗せたとき、バチンという音とともに弦が切れた…その瞬間、突然、私は《彼》の正体に思い至った。

 今度こそ本当に分かった…例の「名前のなぞなぞ」が解けたのだ。

 《…アア、ソレダト「ホ」ノ音ガ余分ニナッチャウナ…》

 《彼》は「ネルのクマ」なんかじゃなかった。あのとき、《彼》は「ホの文字」とは言わなかった…「ホの音」と言ったのだ!
 余分なのは「ホ」の音…音楽では「ホ」の音とはドレミの「ミ」の音のこと、英語で言えば「E」の音だ。
 《彼》がわたしの中から去って行った日、自分の事を「ひとつでありながら無数のものの一部」なのだと言った。「人間だったり動物だったり植物だったり」…「大気に溶けて貝殻にもなり」…そのもっと前には「百億年以上存在している」とも言っていた。
 「車の骨」の「車」は「CAR」で「骨」は「BONE」、だからこれをつないて「E」を取ると…



☆ ☆ ☆



 台風の日から十日がたった。
 あれ以降、ミノさんからは頻繁にメールが来るようになった。
 メールには何度も「僕たちは結婚しましょう」と書かれていた。

 三日前、外で一緒にご飯を食べた。

 ミノさんが言う。

 「今度、妹に紹介するね…」

 ミノさんに妹が居ることは聞いて知っていた。

 「…妹も音楽が好きなんだ、きっとあなたとは気が合うと思うな」


 そうだろうか?


 わたしはこれまでミノさんに、自分が音楽好きだと言ったことは一度もない。ミノさんはきっとあの日に、わたしの部屋にチェロがあったのを見てそう思ったのだろう。確かに、わたしは音楽が好きだ。でも、だからといって音楽が好きなすべての人と親しくなれるというわけではない…


 今日、その妹という人と会った。

 残暑の厳しい暑い日だった。
 ミノさんの家で三人で食事をした。

 ミノさんが子供だった頃の話(すなわち自分たち兄妹が子供だった頃の話)を笑いながらあれこれと聞かせてくれる彼女。
 ミノさんはそんな妹の話をニコニコ頷きながら聞いている。


 会話の内容が、音楽の方へと向かうことは一度もなかった。


 帰り道、わたしは何だか煩わしくなってきている自分を発見した。


 あの日、台風の夜が明けてふたりベッドで目覚め、ミノさんが結婚を口にしたとき、わたしは嬉しかった。
 少なくともミノさんと家族になれる事に素直な喜びがあって、わたしは若い娘に戻ったような気分でクスクス笑いながらミノさんと何度もキスをかわした。


 でも今は………煩わしいだけ。


 家に帰り着くとすぐに服を脱ぎシャワーを浴びた。
 髪を乾かしそのまま(裸のままで)ベッドに横たわると、シーツの冷たさが心地よい。
 同じ裸でもあの夜は横にミノさんが居たけれど、今はわたしひとりきりだわ…と思ってみる。
 もしこれから後の人生を、両親が残してくれたこの家で、傍に話しかける相手もいないまま、ひとり暮らして死んでいくのだとしたら…日々感じたり思ったりする様々なこと…喜びや悲しみ、それに苦しみとか不安…そんなすべてを包含しているわたしの中の小さな宇宙も、いつか、閉ざされたままで無に帰ってしまうのだろうか?



 暗闇へ放り込まれたような不安がわたしを襲う。


 (ああ、わたしはやっぱりミノさんに傍にいてほしいんだわ。もう一度…ううん、生きている限り何度も、何度でもわたしを愛してほしい!あの台風の夜みたいに!)


 と、


 《ソレハ違ウナ》


 …頭の中で声がする。


 《えっ!?あなた…あなたなのね、戻ってきてくれたのね!大切なあなた、わたしの可愛い「車の骨」さん!》 


 一体、それはどれほどの確率なのだろうか?《彼》が再びわたしの脳の細胞に入り込むなんて!

 《彼》は「車の骨」…「car」と「bone」から「e」を取って「carbon」。

 …ひとつでありながら無数のものの一部、百億年以上も存在していて、人間だったり動物だったり植物だったり、大気に溶け貝殻にもなって…


 《ソウサ、ボクハ「carbon」、即チ「炭素原子」サ。ヤット分カッテクレタンダナ…》


 言うと《彼》は自分の生い立ちについて語り始める。

 …今から百億年以上前、宇宙が今よりもずっと若かった頃に《彼》は生まれた。
 宇宙に漂うガスが集まって恒星が生まれ、恒星の中心に強い圧力が生じると水素やヘリウムの原子核は核融合を起して炭素原子核へと生まれ変わる…《彼》もそうやって生まれたのだ。
 やがて恒星は重力崩壊による超新星爆発を起こし《彼》は宇宙空間に放出される。その後、恐ろしく長い旅の末にたどり着いたのがこの地球。酸素原子と結合して二酸化炭素となった《彼》は、やがて植物に取り込まれ有機物に、そして動物によって分解され再び二酸化炭素にと自然のサイクルを繰り返して、ある日、わたしの脳の神経細胞に入り込んだ。

 《じゃ、あなたはあの朝、炭酸ガスになってわたしの口から出て行ったってことなのね。それなのに何日も経ってからまたわたしの体の中に取り込まれ、血液に運ばれて脳の中に戻ってきた。そんな奇跡みたいなことが起こるなんて!それって、きっとすごい偶然だと思うわ》

 《彼》はしばらく間を取った後、静かにわたしの意識に話しかける。

 《イヤ、トコロガ、ソウジャナインダナ。実ハボクハ、ドコニ行クニモ意ノママナノサ。原子ッテイウノハネ、個別ニ存在シナガラモ、ソノヒトツヒトツハ個性ヲ持タナイ。ヨッテボクハ自分ガ望ミサエスレバ、百億光年の彼方ニアル一個ノ炭素原子トモ、一瞬ニシテ入レ変ワル事ガ出来ルンダ。即チ、ボクハ、アル意味、宇宙全体ニ広ガッタ霧ノヨウナ存在……ダカラ…》

 …だから、あんたも死んだ後に無になったりはしないよ。死ぬとあんたの体を構成している原子は散り散りになる。そして宇宙にあるすべての原子と交信できるようになるんだ。それは宇宙そのものになるのと同じって思ってもいい。あんたは忘れているけど、あんたも生まれる前にはそうやって宇宙とひとつになっていたんだぜ。もちろんぼくともひとつになっていた。そしてぼくはその頃からあんたのことを…



 《…ズット好キダッタ》



 嘘でしょう、そんなこと!
 生まれる前のわたしって何?それって一体どういう存在?
 そんなこと、信じられるわけがないわ!
 でも、わたしは聞きながら涙を流していた。
 何なんだろう、本当にワケがわからない。でも嬉しくってたまらない…

 《じゃあ、どうしてもっと早くわたしの中に帰ってきてくれなかったのよ!あなたは一瞬で宇宙のどこにでも行けるんでしょ?わたしの脳細胞の中の原子といつでも好きなときに入れ替われるんでしょ?わたし、ずっと待ってたのよ。でも…でもあなたとはもう二度と逢えないって思ってた!》

 すかさず《彼》が言う。

 《ソレデ、「ミノサン」ッテ奴ニ抱カレタッテ訳カ》

 意地悪ね!もうっ!ここでそれを言うんじゃないわよ!
 わたしは言い返してやる。

 《へ~え、あなた、百億年も生きてるくせに、そんなあなたでも嫉妬するんだね!》

 《ソリャスルサ。アンタダッテ何十年生キテルカラッテ、今モ生キル苦シミハ消エテナイダロ?》

 そう…たしかにそうだ。存在し続けるという事はそれだけで苦しいことだ。年月なんて関係ない。わたしにしてみたって、この歳になってもひとに感じる嫉妬心は若い頃とそんなには変わっていない…だから、《彼》だってわたしがミノさんと仲良くしている間は、当然、わたしの脳の中になんか帰りたくもなかった事だろう。

 わたしがしばらく返事をせずにいると、《彼》はこんな言葉を投げかけてくる。

 《デモネ、言ットクケド、アンタ、アノ「ミノサン」ッテ奴トハ結婚シナイ方ガイイゼ》

 《えっ、どうして?》

 《ダッテ、アイツハ…》



 《彼》は語る…

 三十年前のこと、炭素原子である《彼》は当時、《彼》を含む21個の炭素原子と22個の水素原子、2個の窒素原子、そして同じく2個の酸素原子と結合して「ある有機化合物」を形成していた。ある日、《彼》を含んだ化合物は贈り物のチョコレートの中に溶かし込まれ、ある男から誕生日のお祝いとして男の奥さんに手渡される…

 《…ボクヲ含ンダソノ化合物ノ名ハ「ストリキニーネ」。ボクハ、チョコレートトイッショニ奥サンノクチニ入ッタ》

 《ええっ!?ストリキニーネ?…ストリキニーネってアガサ・クリスティの小説によく出てくる毒薬の名前じゃないの!》

 《ソノヨウダナ。チョコレートヲ手渡シタ「アル男」トハ…オ察シノ通リ、アンタト仲良シノ「ミノサン」サ!彼ノ奥サンハ、チョコヲクチニシタ直後ニ、イキナリ苦シミダシテ…》



☆ ☆ ☆



 ミノさんとの関係を解消した後、わたしは長年住んでいた両親の家を売り払い、海のそばにある遠い街へと移り住んだ。

 潮風と青い空…わたしはまたひとり。でもわたしの中には《彼》がいる。《彼》はもう夢の中の存在じゃない。普通に起きているときも始終語りかけてくるし、沈黙しているときでもいつもその存在を感じていられる。潮風と青い空!そう、わたしは気づいたんだ。この世界は輝きに満ちている!《彼》が居ないときとは比べものにならないくらいに!!!


 その街でわたしはとても長く生きた。そして長い年月の後の夏の最中(さなか)に、降るような蝉の声を聞きながら「時間の外」へと旅立った。


 わたしは宇宙に還ったのだ。 


 そこは時間のない世界…なのに、わたしを取り巻く無数の星たちが不思議な音楽を奏でている。

 「ああ、懐かしい宇宙!これは夢でしょうか?いいえ、実は、今まで現実だと思っていた世界の方が夢だったのよ!」

 宇宙に向かって思いっきり自分を解放する。全宇宙を覆ってわたしを傘のように大きく広げる。

 そこには《彼》がいる。

 当然だ、《彼》はわたしを構成していた原子のうちのひとつなのだから。《彼》はわたしの内側を漂っている。《彼》はわたしで、わたしは《彼》。わたしたちは風と風がそよぎ戯れるように思いを交わす。


 …忘れて…たけど…ひとつ…訊きたい…ことが…あったのよ…


 わたしがまだ時間の中の存在だった頃、宇宙に興味を持つようになっていたわたしは、海辺の街の公民館に大学の先生の講演を聞きに出かけたことがあった。
 そのとき講師の先生はこんな話をした…原子や電子のような「ミクロの世界」に属するものを、人間にとっての日常世界、即ち「マクロの世界」で起こる現象を扱うように扱ってはいけない。なぜなら、その両者の間には物理法則上の断絶があるからだ、と。


 …なのに…あなた……ミクロの世界のあなたは…マクロの世界にいるわたしの意識に…入り込めたのね……それは…なぜ?


 《彼》が応える。


 …ダッテ…ボクハ…炭素原子ダカラ…サ……炭素原子ニハ…ソレガ…デキル……ナゼッテ…炭素ハ……ミクロ…ト……マクロ…ノ……両面ヲモツ…存在…ダカラ…


 …ん?…?…?…


 …ダッテソウダロ?……炭素ハ…炭(スミ)ナンダゼ……ダカラ…







 …炭素ハ…「ミクロ」デアルト…同時ニ…







 …「マックロ」ナノサ!!!




                        【おわり】








 【あとがき】

 読んでくださってありがとうございました。
 クイズの答えは「炭素(原子)」でした。(登場人物の名前は、阿見野さん=「アミノ酸」、志芳さん=「脂肪酸」、と、栄養成分(炭素を含む有機化合物)の名前から取っています)

 まえがきでのお約束通り、題名「わたしの《彼》はハ長調」の意味を明かしておきますと…「ハ長調」は英語では「C」…つまり炭素の原子記号「C」を表していたんですね!
 ではまた

           マルティン☆ティモリ



クイズ付き連作短編小説四部作↓

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