長編小説「神様、all right 」(第5部・第6部)
注、5部・6部のみアップしています。
とても長い(3万字弱)ので、通して
読んでいただく事は想定していません。
途中からなので多分読んでいただいても
ストーリーも分からないと思います。
五年越しでやっと書き終わったので
こちらにもアップしておきたかった。
ざっとスクロールしていただいて、
目に留まったところを拾い読みなど
していただければ嬉しいです。
「第5部」
※※※A(2020~?)※※※
ウイルスの蔓延によって世界中が騒ぎだしたのは2020年の春の事、それと同じ頃に私は亜世ちゃんとハンス薬局で暮らすようになった。
あれから長い年月が過ぎた。にもかかわらず、地上からウイルスが消え去ることはなかった。政府の外出禁止令も未だに解けない。社会の基盤は静かに壊れて行き、電気もガスも来なくなった。食料や日用品の配給もとうに途絶えている。だが、どうしたことか私たちふたりは飢えることがなく腹も空かない。ハンス薬局の窓から通りを眺める限り、相変わらず人影はなく別段パニックが起きている様子もない所を見れば、どうやら他の人達にも同じ事が起こっているらしい。引きこもり生活を続ける内に人類は変質してしまった(という事な)のだろうか?
単調な日々。だが、昼間、私は亜世ちゃんの親父さんの本棚から選んできた本を読み耽って飽くことがなく、一方の亜世ちゃんは一日中ピアノを弾いていて飽くことがない。夜になれば電気の来ない真っ暗な中でふたり身体を寄せ合って過ごす。私は自分の胸の上に彼女の控えめなふたつの膨らみを感じる。身体のどこかが触れ合っていれば、私たちは声に出さずとも意識を通わす事が出来る。私は亜世ちゃんに自分の過去についてたくさんの話を聞いてもらった。反対に亜世ちゃんは余り自分の事は明かしたがらない…でも私はそれはそれで構わなかった。
今は昼。階上から幽かに亜世ちゃんの弾くピアノの音が聞こえている。近頃はもう彼女の奏でる音楽を階段の上がり口に立って聴くようなことはしない。ピアノの音を遠くに聞き、私は下の部屋で時々活字に目をやりながらウトウトしている。
と、固定電話が鳴った。まだ電話は生きていたのかと不思議な思いで受話器を取る。電話の向こうから聞こえてきたのはどこか懐かしい感じのする女性の声、その声が言った。
「もしもし、わたしよ、わたし。え?分からないの?しっかりしてちょうだい。わたし、咲蓉よ。ほら、あなたと婚約していた咲蓉。思い出した?そうよ、私たちは婚約してたわ。そして、その後に…」
※※※B(1976)間奏曲※※※
…俺と第(だい)さんとの会話…
【第さん…俺が子どもの頃から通っていた教会の信者。歳は恐らく俺の三倍以上で教会の信者では俺以外で唯一の男性】
夏の盛り、炎天の下を、俺は第さんの後に従い歩いた。
道でばったり出逢ったら、いきなり家にくるように言われたのだ。
不安定な心のわけは大学を辞めて母親の元を離れ、さらに咲蓉との婚約から逃げ出すことで慣れ親しんできた全てのものを脱ぎ捨てようと決心していたから。偶然に出会った第さんは、そんな俺の表情を読んで気にかけてくれたのだったろう。
「神様はあなたの全てを見ておられますよ、だからあなたの裸の心も知っておられる…とても恥ずかしいことだけれど、それはまた安心なことでもあるのです」
第さんの家は教会からそう遠くない、緑の多い住宅地の中にあった。
割烹着を着た小柄な奥さん(意外にもキリスト教徒ではない)が出してくれた麦茶を前に相対して座る。
俺の様子は明らかに尋常でなく見えたであろうが第さんは何も訊かない。長い沈黙に耐えられず、仕方なしに俺は、特に訊ねる気もない問いのために口を開いた。
「神様の奇蹟って、本当にあるんですかね?」
ほほえむ第さん。
「奇蹟は人の心にあるとボクは思うんです」
丁寧な口調で答える。俺が子どもだった時から第さんとはずっと同じ教会で過ごして来たけれど、真正面に向き合って話すのはこれが初めて。第さんは昔、高校で物理の教鞭を取ってらしたらしいと母から聞いたことがあった。
「それはどういう…?」
すぐには答えず第さんは立って奥の部屋から大判の聖書を取ってきた。
迷うことなく新約…福音書のページを開け、声に出して読み始める。
…もし、あなたが、右の頬を打たれたときには、左の頬をも、差し出しなさい…
まるで歌うような抑揚。それは第さんが礼拝の司会に立ったとき教会堂に響いた聖書朗読の調子と全く同じの、俺に取ってはとても耳に馴染んだものだった。
「さて、鹿野谷さん、ここにはずいぶんと奇妙な事が書いてありますね。そう思いませんか?」
俺は答える。
「ええ、そうですね。クリスチャンじゃない人たちでも知っているような、よく聖書の内容を茶化すのに使われたりする箇所ですよね。クリスチャンっていうのは何と奇妙な振る舞いをする人たちなのかって」
第「まさにまさに。正にその通りです。これは現実にはまずありえない、そして物理的には決してあり得ないと言っていい現象です」
俺「物理的?現象ですか?」
第「そう、ニュートンの三つの運動法則というのがありますね…ああ、そう言えば鹿野谷さん、あなたのお名前は希代の物理学者ニュートンの名前と見事に一致しているのですが(と、第さんはここでちょっと意味の分からないことを口走り)…で、そのニュートンの運動の法則によればですね、自然は必ず「仕返し」を行います。ある物体に力を加えればその物体は必ず同じ大きさの力をこちらに返す…それが自然というものです。ところがここでは頬を打たれても打ち返すのじゃなく、さらに頬を差し出せと言う。これは自然界ではありえないことだ。自然現象の流れの中に人間の心が介在して初めて起こる出来事といって良いでしょう。即ち、心は時に物理法則から外れた「奇蹟」を行うのです。ところで鹿野谷さん、例えばあなたは、あなたが「いけ好かない奴」と感じている相手に何か不快な思いをさせられたとき、相手にその不快さとは正反対の優しさや愛をお返しすることが出来ますかな?」
…「いけすかない奴」と聞いてすかさずSの事が頭に浮かんだ。Sに優しくしている俺、自分の一番大切なものを差し出そうとしている俺、そんな事はあり得ない!だが、それもおかしな話だ。おれはSの顔さえよく知らない。知っているのは「男らしい」という言葉が似合いそうな大柄でがっしりした後ろ姿と、咲蓉の口を通して聞いた幼なじみとしての彼女との親密さ。
…わたしたち、小学校の高学年になるまで一緒にお風呂に入ってたのよ…
だが、そんなことが、どうしてSを嫌う正当な理由になるだろう?全ては受け取る側の俺の偏狭な心のせいである事は明らかだ。
俺が黙っていると、第さんは話を続けた。
「…ボクには居たんです、その「いけ好かない奴」っていうのが。もうとうに亡くなりましたけどね。まだ若かった頃、ボクはそいつとしばしば顔を合わさなくちゃならない立場にあった…会っている時だけの我慢なのでしょうが、一人で居るときでもボクは、そいつの顔を思い出しただけでもう一日憂鬱になったものです。それくらいそいつが嫌いでした。そりゃあ無口で、愛想が良いとはとても言えなかったが、おとなしい男でボクに向けて何かイヤなことを仕掛けてくる訳でもなかった。まあ理由を付けるとすれば、彼はとても見てくれがよかったのですね。ボクは結局彼にシットしていたのです。シット心というのは実に情けないものですね、でも一度抱いてしまうともうどうにも逃れようがなくて、ふとした拍子に感情がマグマのように噴出します。それに加えて、そのシット心を抱え込んでしまった本人がキリスト者であるとなれば…つまりそれはボクの事なのですが…「人を愛せよ」という聖書の教えが、さらにまたジワジワと心を苛み始めるのです」
第さんはそれ以上詳しくは話さなかったが、そこには俺と同様、若い日の第さんの、密かに愛した女性の存在が絡んでいるのではないかと感じさせるものがあった。或いは、もしかしてそれは、先に麦茶を運んでくれたあの小柄な奥さんについてのことなのか…
俺「それで…どうやってその苦しみを克服されたんですか?」
目を瞑り、第さんは静かに首を横に振る。
「克服なんてしちゃいないです。こんな事で自分を責める事になるのは、それは結局キリスト教が…聖書の言葉が自分を苦しめているのだ、キリスト教から距離を置けばこの苦しみから逃れられるかもしれないと思い、仏教の入門書を買ってきては貪るように読みました。そしてこの言葉に出合った…怨憎会苦(おんぞうえく)…お釈迦様の言葉で、この世には嫌いな人と会わなければならない苦しみがある、という意味です。この世には苦しみがある、それは嫌いな人とも会わざるを得ないということ、お釈迦様はその人を愛せよとは仰らなかった、前提として誰にも嫌いな人がいる、全ての人間にそんな苦しみがあるのがこの世なのだぞよ、と仰ったのです。それでボクはちょっと救われた気分になったのですね」
俺「でも、それでも第さんはクリスチャンをやめて仏教徒になったりはされなかった…」
第「はい、左様。キリスト教は捨てられません。それは鹿野谷さん、きっとあなたも同じだろうと思う。聖書にありますね…あなたの幼い日にあなたの造り主を覚えよ(伝道の書12章1節)と。ボクは子どもの頃から教会に馴染んでいた。年齢を重ねるに従い、仏教の教えが、ボクに取って生と死を理解するための大切な知恵となっていった事は確かです…キリスト教には(少なくともこの国の教会にありがちな清教徒的雰囲気の中には)それほどの知恵の深みはない様にボクには思えました。でもね、いざ追いつめられた心境に陥ってしまうとね、やはりボクはキリスト教の神様じゃないとダメなんだ。追いつめられたボクの心に阿弥陀さまのイメージは湧いて来ません。キリスト教とともに生きてきたボクの中では神様こそが唯一の助け主…その事に全く疑いの余地はないのです。言ってしまうなら、聖書に書かれている奇蹟のひとつひとつが歴史的事実かどうかなんて事にはボクは拘らない。類いまれな霊感でもって創作された芸術が彼岸の存在を感じさせてくれるのに似て、ボクは旧約聖書から新約聖書へと続く大きな流れの向こうに暁の星の清冽な光を見ます。そして、いつか神様が、貧しく卑しいボクの心をこの惨めな苦しみから救ってくださる、ほんの一瞬でも奇蹟に導いてくださるのかもしれないという思いがあるのです。だからこそボクは、その時を、怖れながらも密かに期待せずにはいられないのですよ!」
言うと第さんは再び奥へ立っていって今度は聖歌集を二冊取ってきた。 標準版の方を俺に渡し自分は大判を開く。
「では、これを歌いましょう」と言って(教会でよく使われる「賛美しましょう」ではなくて第さんは普通に「歌いましょう」と言った)俺にページを示す。
第さんと俺は、聖歌402番「丘に立てる荒削りの」を歌った。
第さんの朗々と響く歌声には真実がこもっていて、歌ううちに歌詞が胸に迫り俺は思わず嗚咽を漏らした。
帰り際、玄関口まで送りに出てくれた第さんに俺は気になっていたことを訊ねる。
「あの…さっき物理法則の話の時に言っておられた、僕の名前がニュートンと一致しているっていうのは一体どういう意味なんですか?」
第さんは、ああ、正にそれを訊いて欲しかったんだ!という表情で頷く。
「はい。鹿野谷さん、ボクは初めてあなたの名前を聞いたときからずっと思っていたのですよ…あなたの姓が「ニュートン」に一致しているって。というのも、あなたの姓「かのたに」は、まず一文字目をカタカナにして(カのたに)、次に後半の「たに」をローマ字に直す(tani)、これは「n」と「i」を分けて読むと(tan、i)「たんい」と読めます。続けて書いてみると「カのたんい」ここでカタカナの「カ」を漢字と見ると「力(ちから)の単位」と読める。よって力の単位、即ちN(ニュートン)になるという訳なんです……いや、きっと、あなたは無理なこじつけだと思っていらっしゃるのでしょうね。でもね、これは多分、あなたの名前に限った話じゃない」…
帰路。私鉄の駅へと続く夕暮れの道をひとり歩いた。
第さんは言っていた。神様がおられるとは何と幸福な事でしょう、神様にお祈りできるとは何と安心な事でしょう…俺もその感覚は共有している。教会を辞めても信仰は捨てない。いつかまた俺は、ふとした切っ掛けでどこかの教会の門を潜る事になるだろう。いつかまた、教会という奇態な集団に身を置く事を自らに求めるようになるのだろう。だが、それでも今、あの通い慣れた教会を去ってしまうのであれば、俺はもう日曜の礼拝を第さんと共にすることは出来ないのだ…それはこの日、初めて第さんと心を通わせた俺にしてみればとても残念な事であり、また随分心細い話なのではないかと感じずには居れなかった。
不思議な第さん…俺の名前をニュートンと繋げたあの話は単なる冗談だったのか?それとも何かもっと深い意味があったのだろうか?
…そう、これはね、あなたの名前に限った話じゃないのです…
※※※A(2020~?)※※※
電話の向こうの女性の声が言った。
「…わたし、咲蓉よ。ほら、あなたと婚約していた咲蓉。思い出した?そうよ、わたしたち婚約してたわ。そしてその後に…」
一瞬、声が途切れ、私は後に続くであろう言葉を怖れた。
(そしてその後に…)…私は黙って教会を去り、以後、彼女には何の連絡もしなかった。実家を出た私は彼女を置いて逃げたのだ…
だが、続いて聞こえてきたのは意外な言葉。
「そしてその後に、わたしたちの約束は成就した…わたしとあなたは教会の皆に祝福されて結婚したの!…でも、結婚式を終えたその日に、あなたは突然意識を失い倒れてしまった」
(えっ………?)
この感覚を一体何と表現したら良いだろうか、咲蓉の口から語られたのは私の記憶とは全く異なる別世界のような話。だが、実のところ私に左程の驚きはなかった。
私は知っていた、あの物干し場に立って空を見たときから(いや、本当は多分そのずっと以前から)自分に起こっている事態が何であるかを、漠然とではあるが知っていたのだ。
突然に始まったウイルスの蔓延、発声を必要としない意識のやりとり、食物や水を必要としなくなった身体…自分が亜世ちゃんと暮らす「ここ」は実に奇妙な世界だ、何かが狂っている…いや(既に意識の奥で感じていたように)恐らくここは私の心の中にのみ存在している仮想の世界なのだろう。そして本物の世界はきっとどこか他所にあるに違いない。
そのリアル世界というのは、或いは咲蓉が今いる電話の向こうの…
咲蓉の声が続ける。
「…婚約から結婚までの三年間、あなたは生まれ変わったように教会に尽くしてくれたわ。私と二人で小さな教会を支えて、クリスマスやイースターの時期には率先して教会の雰囲気を盛り上げたりもしてくれた。牧師先生夫妻も教会のみんなも、もう大喜びだったのよ。従兄弟のSくんの事だって、あなたは最初は苦手だったようだけど、時間が経つとともに打ち解けて、ほら、三人でよくあの遊園地へ遊びにも行ったよね…」
咲蓉は言う、あなたはわたしに取って理想的なパートナーだったと。それなのに、式を挙げた途端にこんなことになってしまって本当に途方に暮れていると。
(いやいや、違う、違う!!それは偽りの私だ。たとえそれがリアル世界に住んでいる本物の肉体を持った私だったのだとしても、それはただ単にクリスチャンを演じているだけの偽物の我なのだ!)
「でも…どうやってここの電話番号が分かったの?」
「電話?…違うわ。だって、あなたは倒れて以来ずっと意識不明のままで病院のベッドに寝ているんだもの。だから、わたしは今、お医者様に自分の頭とあなたの頭を電極で繋いでもらって、それでこうやってお話し出来ているのよ。あなたは今、病室でわたしのすぐ側に眠っているの」
(あ、ああ…なるほど…そういうこと…なのか(?)…だが、そうだとすると…)
「でも、そうだとしたら、僕はもう何十年も目を覚ますことなく眠り続けてるってことになるが…」
「えっ!?何十年???何を言ってるの?あなたが倒れてから、まだほんの一ヶ月しか経ってないっていうのに!」
そして、突然、電話の向こうに人の気配がなくなった。
もう、こちらがいくら呼びかけても咲蓉の声は応えなかった。
医者が咲蓉の脳から電極を外したのか?
いや、そうじゃなく…
(…意識交流を起こさせる程の脳への強い通電は恐らく大変な危険を伴う行為なのに違いない。だとすれば咲蓉の身に何か恐ろしいことが起こったのではないか?脳への負担で咲蓉の中枢が致命的なダメージを受け、それで突然に通話が途切れたのでは…)
途方もない不安に襲われ、私は《瞼を開こう》と試みた。
…瞼を開く?
今、目を開けているのにも拘わらず、さらに瞼を開くって???
だが気がつけば、奇妙なことにそれまで周囲に見えていた筈のハンス薬局の部屋は次第に暗く霞んで消え、その後、まるで劇場の緞帳が少しだけ上がったかのように、《瞼》は僅かに、薄く開いた。
視野に現れたのは横長の白く眩しい光。
それは病室の白い壁。誰か女性の悲鳴に似た叫び声が聞こえている。
その叫び声の主(ぬし)が、私の方へ目を向ける。
と、叫び続ける声の調子が変化した。
「あーっ、ああ、ああ、先生!息子が、息子が目を開いています!」
叫んでいるのは母、しかもそれは何とまだ年老いていないころの、私が二十代だった頃の容貌を持った母。そんな母の姿が今、狭い視野の隅のところに見えている!!!
母と私の視線が交わり、叫び声がさらに大きくなった。
「先生!先生!早く、早くこちらへ!!!」
恐ろしくなって私は反射的に《眼を閉じる》。
《瞼》の裏の暗闇に再びハンス薬局の部屋が戻ってきた。
ここは元の世界…
今のは!?
今のは一体、何だったんだ?
握りしめていた受話器を置き、しばしの間、長く暮らしてきたこの部屋の内部を見回してみる。
ハンス薬局も亜世ちゃんも、全ては妄想だった。
共に暮らし、私が人生で唯ひとり心を許すことができた亜世ちゃん。だが、それも今となっては当然のこと。亜世ちゃんは私の自意識がつくりだした幻だったのだから。
固定電話を前に、私は、暫く呆然と座り込んでいた。
そしてハッと気づく。咲蓉は?咲蓉は結局どうなったのか?
私が《瞼》を開いた時、私の耳には既に母の叫び声が聞こえていた。そして私の様子に気づいて母は、それまでとは違った別の調子で再び叫び始めたのだ。
二度目のものは恐らく私が意識を取り戻したことへの驚きの叫び。では私が《瞼》を開いた直後に聞こえていた叫び声は?…それは咲蓉の身に何事か起きたが故の母の悲鳴ではなかったか?
(おお、今すぐ行かなくっちゃ!あの白い病室へ!《瞼》を開いてこの幻を脱ぎ捨て、起きあがって咲蓉を危険から救わなくっちゃ!)
でも、そんなことは不可能だった。今、私の目にはハンス薬局の部屋の内部が揺るぎないリアルさを伴って見えている。これをどうやってかき消すというのか?一体どうやれば、もう一度《瞼》を開けることが出来るのか?
…それは、無理ね…
頭の中で亜世ちゃんの声がした。しかし気配は感じるものの、周囲を見回しても亜世ちゃんの姿はない。ただ彼女の声だけが次々と意識に飛び込んでくる。
…そんなの無理よ。だってあなたは折角のチャンスを自分で駄目にしちゃったんだもの!あなたはあの瞬間に《瞼》をしっかり開くべきだったのよ。なぜ閉じちゃったの?怖くなって?…ホントかな。もし本当に怖くなったんだとしたら、それはきっとあの現実世界に戻るのが怖かったんでしょうね。あなたはそういうひとなのよ。現実から逃げて、咲蓉さんから逃げて、頭の中にわたしという「自分に取って居心地のいいパートナー」を作り出して…あなたはね、あなたの若い日に、気持ちの全てを咲蓉さんにぶつけるべきだったんだわ!教会が嫌だって。Sくんの事が嫌だって。彼女はきっと怒ったでしょうね。けれど、最終的にはあなたのことを受け容れてくれたかもしれない。ふたりは素敵なカップルになれたかもしれない。たとえ受け容れてもらえなかったとしたって、咲蓉さんとの関係が駄目になるだけなんだから別に今と何んにも変わらないわ。いいえ、ひとつ違うことがあるわね。もし咲蓉さんに全てをぶちまけて、彼女があなたを非難するようなことがあったらあなたは傷つく。あなたは傷つく事をものすごく怖れるひと、自分の事がとっても大切なナルシストなの。ナルシスト!ナルシスト!ナルシスト!それがあなたの正体よ!
耐えきれなくなって私は誰もいない壁に向かって叫ぶ。
「じゃあ僕はどうすればいいっていうんだ!」
…知らないわ、自分で考えなさい。咲蓉さんはあなたの為に危険な電極を頭に差し込む事さえ厭わなかった。それに引き替えあなたはなんなの?ずっと幻の世界に遊んでただけじゃない。今更《瞼》を開いたって、もしそうなったって、残念ながら医師でもないあなたに出来る事なんて何もないわよ!
(亜世ちゃん…)
…じゃ、わたしは消えるね、さようなら…
(………)
どれくらいその場に座っていたろうか。
今、時刻は何時ごろなんだろう?
さっきお寺の鐘の鳴るのが聞こえた気がしたから午(ひる)を少し過ぎたあたりか?
だが、そうだとしたところで、この世界での時間なんてものにどれほどの意味もありはしない。全ては、まぼろし、幻、マボロシ…なのだから。
と、階上からピアノの音。
(亜世ちゃんなのか!?)
私は立ち上がり階段を駆け上がった。
(ああ、亜世ちゃん!幻だっていい。さっきみたいに彼女が…いや、あれは即ち私の潜在意識の発する声だったのだろうが…どんなに私を難詰しようと、罵倒しようと構わない。許されるならこの掌でもう一度彼女の身体を感じたい。そして日が暮れたなら、ふたり仲良く抱き合って二匹の猫のように眠りたい!)
息をきらせ階段を上がり切った。
北側の部屋、ピアノのある部屋の方へ目をやると確かに誰かがピアノを弾いている。だがそれは亜世ちゃんではなかった。ピアノを弾く手を止め、その場に棒立ちになっている私のほうへ振り向いたのは、最初に通った教会のメンバーで元高校の教師だった第さん…
「やあ、鹿野谷さん、こんにちは」
言って片手を挙げエヘヘと笑う。
四十数年振りの再会…ということになるのだろう。でも第さんがどうしてここに居るのか?…いやいや、「ここ」は即ち幻影世界なだけに、最早私はそれを奇妙な事とは感じなかった。よって第さんの容貌が当時と少しも変わっていない(全然歳をとっていない)点についても特別不思議とも思わない。
「第さん、ピアノ、弾けるんですか?」
「いいえ、弾けやしません」
「でも今、弾いてらしたじゃないですか」
「おや、そうでしたかな?」
要領を得ない第さんの応答を聞きつつ、ふと見れば、先に音が鳴っていたにも拘わらずピアノ(電子ピアノ)のコードが外れている。否、仮に繋がっていたにしても同じ事。何故って電力が供給されなくなってもう久しいのだから…ここは理屈など通らぬ世界なのだ。
第さんが言う。
「ウイルスはどうやら消滅したようですよ。外出禁止令も解除されたようです。ほら、耳を澄ませてごらんなさい」
確かに、さっきから低い振動音が遠く耳に響いてきている。それは足音…夥しい数の人間たちの足音だ。その足音が次第に音量を増し、今や人の群れはこのアーケード街へと進入を始めたらしい。足音に加え大人数の賑やかな話し声がこの日までずっと静寂を保っていたアーケード街の空間を満たし始める。窓際へ駆け寄って通りを見下ろすと、商店街の入り口からは雑然と歩む群衆の塊が、ダム決壊直後の濁流を思わせる圧倒的なうねりとなってこちらに向け押し寄せていた。
群れを構成しているのは紫煙を纏い酒瓶を手にした若者たち。男たちは奇妙なリズムで首を揺り動かし女たちの若い胸もまた揺れている。と、アーケード街のもう一方の入り口、広い車道に面した側からは、自転車に乗った別の若者たちの集団がなだれ込んで来た。こちらは男ばかりで無言のまま一気にエリア内へ…
「第さん、大変だ!自転車に乗った集団がスピードを緩めずに突っ込んで来る。これじゃ人の群れにぶつかってしまうよ!」
私の叫ぶ声に第さんも立って来て窓際に並ぶ。徒歩の群れは自転車部隊を避けようと急いで道の端へ身を寄せるが何せ人が多過ぎる。結局は避けきれず、そのまま最前列の数人が生身で自転車の突入を受け止める結果となった。悲鳴と怒鳴り声。自転車の倒れるガシャンという音。怒った群衆の男たちが次々に自転車を蹴り始め道に倒れかかった運転者を殴りにかかる。
そこいら中で喧嘩が始まった。もちろん各店舗のシャッターは今も閉じたままになっているから、取っ組み合っている彼らの身体がシャッターへぶつかるごとに、打ち鳴らされたシンバルの様な衝撃音がアーケード街に響きわたる。若者たちの服は裂け額や唇から血を流している者もいる。
眼下で入り乱れる人、人、人。
騒乱は長く続いた。そして数十分の後、遠くにパトカーのサイレンの音…途端に喧嘩はパタリと治まり彼らは祭りを終えた民衆のようにぞろぞろと去り始める。通りの上にはひしゃげたタイヤの自転車が数台、地面のあちこちには割れた酒瓶、吐瀉物、血痕…喧噪が去って商店街には静けさが戻る。
部屋の中では知らない間にピアノが鳴っていた。振り返って見るといつの間にか第さんが、再びピアノの前に座り鍵盤の上で指を動かして居る。その動きは明らかに出鱈目、にもかかわらずピアノからは私が最も愛した賛美歌495番のメロディが流れ出ていた。
讃美歌の響きはいつも乱れた心を鎮めてくれる。ピアノを弾く(?)手を止め、第さんが言った。
「ボクの事も幻影だとお思いですかな?」
私が黙っていると第さんは更に続ける。
「確かに、この世界には実体も意味もない。そんな透明で空っぽの世界に形を見、意味を付与するのは我々個々のちっぽけな意識、そこに幻が生じます。たとえば、今鳴っていた賛美歌の495という番号…神様の目から見ればこれは何の意味もない数字だけれど、意識はこの数に何らかの意味を見いだすことが出来る。495は99の5倍…99という100に1足りない数に手指の数の5を乗じたものと言えば、ほら、何だか意味ありげに聞こえませんかな?いや、他に例えばこんな風にも…」
…そう、こんな風にも意味づけられますね。どうでしょう?数字の「1,2,3…」をアルファベットの「a,b,c…」に置き換えてみればこの「495」という数は…
おやっ?待てよ、これはどこかで聞いた話だぞ。聞きながら私はそう思った。
遠い昔、教会裏庭での咲蓉との会話?
それともウイルス蔓延の後に、ここハンス薬局で亜世ちゃんから?
否、はっきりとは覚えていないけれども…
私は問う。
「じゃあ、今いるこの世界だけじゃなく、過去の経験も含め、何もかもが幻だったと?」
第さんが答える。
「ええ、そう言って良いと思いますね。意識のみがあって、その「意識」が空虚な世界の向こうに幻を見る。この世をこの世たらしめているのは幻。ただし幻とは言っても、それは眠りでみる夢…空を飛べたり、また動物と会話出来たりするそんな夢のようなものとは全く違って「厳密な物理法則に縛られた幻」であり、「因果律に忠実に従う幻」なのです。「夢」は混沌、でも世を形作る「幻」には「ロゴス(論理)」が与えられている…これについてはご存じの様にヨハネ福音書の冒頭にも記されています。ところが、実はごく稀にその幻を支えていた論理に綻びの生じる事がある。恐らく多くの「奇蹟」と呼ばれる現象は(おお、死から蘇りしラザロ!)そんな意識の枠組みが崩壊した瞬間に出現するのでしょう。そして鹿野谷さん、嘗てあなたの意識が持っていた筈の論理性もまた、多分、ふとした何かの切っ掛けで壊れてしまったのですよ!」
私は考える。
…だとすると、その切っ掛けは?
…時期的に考えれば、それはやはり「母の死」ということになるのだろうか?
ひとりっ子だった私に取って母は、確かにとても大きな存在ではあった。けれど、私たちは決して折り合いの良い親子ではなかった。母はまだ子どもだった私を教会に伴うことで、この世にあるもののうちの最良のものを私に与えていると信じていた。狭い教会の中の、年輩の大人たちとの交流を尊重するよう強いられたが、私は彼らの(…牧師夫妻の、教会の人たちの、そして母の…)どこか欺瞞的に響く「信心語り」に嫌悪を覚え、強く反発した。結果、中学、高校と成長するにつれ、私の心は次第に内向を強めてゆく事となったのだ。
だから母が亡くなったとき、私は長年自分の上に置かれていた重石がヒョイと取り除かれたような、一種軽やかな感覚を味わった。だが、その日を境に、まるで母の死と連動するかのように、私の住んでいた世界の歯車が狂い始める。
(突然に始まったウイルスの蔓延。そして亜世ちゃんとの………もうこの世には居ない筈の亜世ちゃんとの遭遇!!!)
「でも、第さん、意識というのは脳があってこそのものじゃないんですか?脳が存在しないのに意識だけがあるなんて、とても奇妙なことのように思えるんですが」
第さんがニヤリと笑う。
「いやいや、そうじゃありません。脳という名の器官の存在もまた、意識が見ている幻なのですよ。今あなたが仰ったように、一体なぜ意識というものがあるのかという疑問に答える為に、我々はその論理的説明としてそういった器官、即ち「脳」という幻を必要としたのですね」
(じゃあ、あの瞼を開いた向こうの世界も幻だったというのか?ひとつの意識が二種の幻想を生きるという事もあり得ると?)
呆気にとられている私に構わず、第さんは徐(おもむろ)に立ち上がって言う。
…では、そろそろ参りましょうか。
《第6部》
「では、そろそろ参りましょうか」
(どこへ?)…そんな私の疑問の機先を制するように第さんは背を向けスタスタと歩き出す。私は第さんの後を追った。二階南側の部屋の突き当たり、物干場へと通ずるサッシ戸の前で立ち止まると、第さんは半月状の回転錠を外しサッシ戸に手をかける。
(ああ、そういう事なのか)
理解した私は第さんに向かい、少し待っていて下さいと告げて一階への階段を駆け下りた。店のシャッターに付いている小さな出入り口を潜って外に出ると、まずあちこちに倒れているタイヤのひしゃげた自転車を一台ずつ側道へ運んで積み上げる。散乱している割れた酒瓶は一カ所に集め、破片は箒できれいに掃く。道を汚している吐瀉物や血痕、また尿らしき液の溜まりもポリバケツの水で洗い流し、再びシャッターを潜って第さんの待つ二階の部屋へと引き返した。
「お待たせして済みませんでした。じゃあ行きましょう」
第さんは頷き、サッシ戸を開ける。物干場の床へ一歩踏み出すと、正面にはいつか見たのと同じ緩やかに湾曲するコンクリート壁が、そして見上げればあの時の「波打つ空」があった。
傍らで同じく「空」を見上げながら第さんが言う。
「あなたが特別にナルシストだという訳ではありませんよ」
(え?)私は第さんの方へ振り向く。
第さんはそのまま「空」を見上げたままだ。
「そう、あなただけがナルシストという事はない。誰だって最も愛しているのは自分だしそれは仕方のないことです。ただ、あなたは育った環境の為か未だ他人に慣れていない。だからあなたの考え方の中にちょっと特殊なところや十分にこなれていない部分があって、そこに共感出来ない人たちがあなたの事を自己本位と感じそう呼ぶのかもしれません。良いんです。こなれていなければ時間を掛ければいい。特殊なところは良く吟味し、修正するなり残すなり、誠実な「迷い」を通して育てていくしかないと思うのですね」
言うと第さんはここで初めて僕の方へと視線を向けた。
第さんが続ける。
「それにね、クリスチャンたちの間にも教会単位で集団的ナルシシズムに陥っている様な例は沢山あるのですね。いや、ボクも若い頃からずっと教会に通い続けて来たわけだから、教会という存在の何もかもを否定する積もりはありません。教会は神様について知りたい気持ちや神様に近づきたい心を満たしてくれます。それに、組織に属し周囲と調子を合わせる事、集団独自の言い回しや振る舞いをなぞる事は心地よくまた安心感を得られるものです。ボクもそうでした…いや、今もまだそうなのかもしれませんね。でもね、そんな集団的ナルシシズムに首まで浸ってしまってはいけません。それでは「迷い」がなくなってしまう。人が作り出した小さな論理の中で完結してしまっていては、神様の本当の姿が見えなくなってしまいます。神様への道は多分とてもシンプルです。神様は何も要求しません。信徒たちにあれこれ要求するのは教会の指導者や中心人物たち、或いはそれぞれの教会を満たしている特殊な空気…そこには神様とは何の関係もない組織維持のための論理や指導者自身の見栄・満足の為に作られた慣習がふんだんに溶かし込まれています。そして困ったことに、人には何かに服従する事への喜びや快感といったものが確かにあるのですね。そう、幼児なら苦もなく神様のもとに行けます。いや、幼児であるということは即ち神様のもとに居る事だと言って良い。でもこの世の分別にまみれてしまった大人にはそれは無理…よって何らかの論理が必要となるわけなのですが、我々が抱く神様のイメージは長年にわたる教会の歴史の過程で余分な教義がベタベタと貼り付けられ、随分と複雑なものにされてしまいました。だから大人がそのようなノイズを克服して純粋に神様と出会うためには、めいめいがイバラに満ちた「迷い」の森を潜り抜けるしかありません。迷いの果てに妙な気遣いや分別を脱ぎ捨ててこそ、我々は幼児の純朴さに多少なりとも近づく事ができる。ところが教会の指導者たちの多くは信徒たちが迷うことを極端に嫌うんですね。組織維持の為には、そんな「迷い」など邪魔なだけなのです。一方、信徒たちには疑い・迷いを放棄した見返りとして「世の人々に対する密かな優越感」という報酬が用意されている…斯くして、指導者たちは自覚的にせよ無自覚にせよ、信徒たちの思考を停滞させ、その意識を迷いの少し手前に留め置くよう日々心を砕いているという訳なのですよ!」
ひと息に言うと第さんはここでちょっと苦笑いを浮かべた。
「ああ…いや、鹿野谷さん、どうやらボクはあなたといるとあれこれ余計な事を喋りすぎてしまうようだ。あなたはボクに似ている。そしてこの後あなたはボクよりもさらに深みへと潜る……のか、或いは破綻してしまうのか。どちらにせよ、あなたとはまた何処かでお会いできるような気がしています。その再会の日まで、今は一旦お別れだ。それでは……ここでさようならです!」
言い終わるなり「空」に向かって大きく両手を差し出した。するとその身体は何かに抱きとめられたかの様に持ち上げられ、波打つ「空」へと吸い込まれて行く。
「あ、待って、第さん!」
後を追おうと私も「空」へ向けて両腕を広げる。
だが私の足が物干場の床を離れる事はなかった。何度も両手を差し出してみたが私の身体はその場にとどまったまま…
(ああ、取り残される、捨て置かれてしまう!)
焦りが意識を駆けめぐる。そうこうするうち次第に「行く」事への恐怖が心に芽生え始める。
(いや、怖がったところで仕方がない。それともお前は亜世ちゃんのいないこの場所で、いつまでも、何の喜びもないままに留まり続ける積もりなのか?)
だが、だからといって一体どうすれば良いのか見当もつかない。
表通りの商店街の方では、再び若者たちが集まり始めたのか何かを叫ぶ声や甲高い笑い声が響いている。
暫くその場を動けずにいた。しゃがみ込み、立ち上がり、またしゃがんだ。途方に暮れて物干場の床に膝を抱えて横たわる。
(これから僕はどうなるんだろう。ここで亜世ちゃんとふたり暮らした事の意味とは結局何だったのだろう?)
思考は同じ所を何度も行きつ戻りつし、ついには考える事に疲れて眠りに落ちた。
…夢の中に第さんの声が聞こえる。
《何をしているんです、ほら、立ちなさい!立って、向こうからやってくるものにすべてをおまかせするのです》
ふらふらと私は立ちあがり、見上げた。
意識の半分はまだ眠りの中にあるにもかかわらず、自然と両手が前に伸び、そのまま私は「空」へと吸い上げられていく。
(これは夢の続きなのか?実際には僕はまだ、物干場の床に膝を抱えて横たわっているのじゃないか?…でも…実際?…実際って何だ?現実は夢、夢は現実…そこにはもう何の違いもない)
私は…いや、今や肉体的な存在ではない「私なるもの」は、「空」へ向けて上昇している。
…目前に聳えるコンクリート壁はダムの内壁。
…いつか亜世ちゃんと聞いた激しい雨音はダムの放流音。
そうだ、ここはダム湖の底なのだ。例の、周りを遊園地に囲まれたダム湖の底。私は今、あのダム湖の深みに居て水中をゆっくりと浮上している。
真上には丸く切り取られ波打っている「空」。
なぜ「空」が波打つのか?
それはさざ波の立つ湖面を通して見た空だから。
丸く見えるのは水面の裏側で光が全反射するためだ。
視線を下に向けるとそこには、今、後にしてきたハンス薬局の屋根が?…いや、そんなものなどあるはずもない。代わりに見えているのは湖底に沈んだ古い軽自動車…あれは亜世ちゃんの親父さんの車。車体の側面には泥に汚れて微かに「ハンス薬局」と描かれたロゴ文字が見える。あの当時、親父さんは小学生だった亜世ちゃんをよくあの車に乗せて走っていたものだった。今、軽自動車のフロントガラスの奥で何か白くて細長いものが揺れた。白骨のようなものが、優しく、揺れた。
(さようなら、亜世ちゃん)
私は上昇を続ける。
湖面までの距離はあと僅かだ。
☆ ☆ ☆
そして水面に浮上!
「私なるもの」は湖面を突き抜け、そのまま気球みたいなゆっくりした速さで空中をゆらゆら昇っていく。
辺りは昼だが空には雲が重く垂れ込め雨が降っている。
無数の雨粒が、肉体を待たない「私…」の中をニュートリノみたいに通過していく。
下方のダム湖を取り巻く遊園地に人影はない。いや、それどころか(一体どれほどの年月が経ったというのだろう)施設は荒れ果てており、咲蓉と乗った観覧車もペンキが剥げ落ちて、錆の浮いた赤い鉄骨が雨の中、谷の斜面に無惨な姿を晒し立っている。
と、湖面に変化が現れる。
水面がいきなり波立ち、その付近からなにやら黒くて大きなものが浮き上がってくる。
黒髪に縁取られているそれはひとの頭?…と思う間に肩が現れ胸が現れ、見れば何と身長三十メートルはあろうかと思われる途轍もなく大きな裸の男。ダム湖の中から半身を現し、今、ゆっくりと顔を上げてこちらを見た。濡れそぼった伸び放題の髪が左右に別れ、現れた顔全体を覆っているのは原始人さながらの生えるにまかせた密度の濃い髭。だがその髭の奥にある妙に馴染み深い顔というのが……(ああ、何ということか……)あれは紛れもなく若かった頃の私の顔。未熟でいじけた、如何にも自信無さげな二十歳前後の私の顔だ!
「若い私」である巨人は細い目をさらに細くし、じっとこちらを見ている。魂になってしまった私が見えるのか?それともただ雨空を仰いでいるだけなのか?やがて見上げるのをやめ、ダム湖の中を岸の方へゆっくりと歩き出す。
浅瀬に近づくに従い「若い私」の全身が露わになっていく。あばら骨の浮いた痩せた身体、情けない事に腰には布一枚着けていない。と、腿の中ほどまでが水面上に現れたあたりで不意に立ち止まり、身体がぐらりと傾いたと思ったら、そのまま前方へ倒れ込んで岸の地面に両手をついてしまった。どうやらあの貧弱な筋肉では水の浮力なしに体重を支えきれないらしい。それでも彼は谷の斜面を見据え這うように進む。そして例の錆びた観覧車(彼の身長とほぼ同じ高さだ)の手前まで来ると、怒ったようにカッと眼を開き、スポーク部分の鉄骨を両手で掴むや激しく揺すぶり始める。
グワァングワァンという大音響が大気を震わせる…(?)いや、それは恐らくそういう音がしているのだろうという私の推測。身体的な存在でなくなってしまった魂は「音」を感じない。感じ取れるのは可視領域波長の電磁波たる「光」のみ。観覧車は巨人が揺さぶるうち遂に支柱が折れ、円形の鉄の塊が彼の方へ覆い被さるように倒れかかる。巨人は鉄骨の下敷きになったまま、激しい水飛沫と共に再びダム湖の中へと沈んでいった。
その後どうなったかは分からない。なぜなら彼が観覧車もろとも湖に消えると同時に、垂れ込めた乱層雲の下面が「私…」を呑み込んでしまったからだ。私は雲のトンネルの中を上昇しつつ、この後に起こることを心に描いてみる…
さほど厚くもない層状の雲だから直ぐにでも雲の上端を突き抜け、私は間もなく全天にひろがる青空と雲海の向こうに輝く黄金色の太陽を見るだろう。その時、雲の彼方に、中空に浮かぶ美しい都市を見いだすのかもしれない。ウイルスの蔓延に始まり、亜世ちゃんや第さんとの出会い、若者たちの乱闘、哀れな巨人…そんな様々な幻の後に出現するこの都市こそは私が出会う最後の幻…麗しき天の国、約束の都の姿なのだ。
都の門は開かれている。その地で私はもう一度第さんや亜世ちゃんと対面する。母とも再会する事だろう。そして祭壇の前に進み出、霞むほど遙かな高みにいらっしゃるそのお方…天の主たる神様の御顔を仰ぎ見るのだ!
…だが、予想に反していくら上昇を続けても雲のトンネルは終わらなかった。何時しか周囲は暗さが支配するようになり、暫く経ってようやく雲のトンネルが消えたと気づく頃には、下方に青い地球、周りを無数の星々が取り巻いている。どうやら高く上り詰めたあげくに天の国を見ることもなく宇宙空間に達してしまったらしい。私は最後に天国の幻が現れるはずだと期待していた自分を笑いたくなった。実に、私の思考には教会の教えが何処までも深く染みついている。下方の地球は次第にその従者たる月とともにふたつの小さな点へと変わっていった。
私は昇る。
どこまでも?
永遠に?
心細さから漆黒の宇宙の闇に見知った星座を探した。だが、元々、左程星座に詳しいわけではないからそんな試みは直ぐに行き詰まる。そうなると途方もなく雄大でありながら何の変化も生じない周囲の光景は、ただただ私の精神を圧迫するばかり。そこで今度は嘗て地上に居たときに親しんだ音楽の響きを思い浮かべてみる。結果、真っ先に心に浮かんだのは(意外というかやはりと云うべきか…)賛美歌だった。私はふと思い出す。子どもの頃、教会で牧師先生に怒鳴られた事…
あれは洗礼を受ける以前、まだ小学生の頃の冬の日曜の午後、たまたま教会堂で先生と二人だけになったときの事だった。他の大人たちは皆連れだってクリスマス用の品の買い出しに出かけていた。暫く先生と他愛ない話をするうち、特に深く考えもせずに私はこんな事を口にした。
…「先生は教会のみんなが神様に捧げたお金を自分のお給料にしているんだね」…
子どもの私は、常々、母が少ない収入の中からせっせと献金をする傍ら、教会から割り当てられる結構な量の仕事に対しては全くの無報酬であるのをとてもおかしな事と感じていた。加えて日頃の先生の幾分偉ぶった態度への反発もあったのかもしれない。
聞いて先生はいかにも不愉快そうな表情になった。最初は何か言い掛けたが直ぐに口を閉じると突然その顔が怒りにゆがんだ。そして私に向け「お前にそんなことを言われる筋合いはない!」と怒鳴るやそのままぷいと会堂から出て行ってしまった。先生からお前と呼ばれたのは初めてだったし怒鳴られたのも初めての事だった。だが、私は家に帰ってもこのことを母に話しはしなかった。話したところで、教会生活を心の支えとしている母が私の味方になってくれるとは思えなかったし、これは即ち教会という狭いコミュニティーの中での大人の領域に属すること。思っていてもそれを言わないのが信徒間の暗黙の了解であることを子どもなりに感じ取ったからだった。
信徒は神様に向けて献金をし、神様はその中から多くの部分を牧師に報酬として与える。だったら母の教会奉仕に対する報酬は?…それは金銭に代えられない神様からの「(精神的な)恵み」…いや正確には「日々の恵み」があるからこその、それへのお返しとしての教会への奉仕…もちろん「日々の恵み」は牧師先生も受け取っておられる筈だけれど、先生にはそれ以外に自らと家族との生活を支えるための金銭も必要だと云う…これは即ち長い年月の間に確立された教会組織を維持するためのシステムなのだ。そしてそこに厄介な人間的感情(クリスチャンはこれを「肉の思い」と表現する)を持ち込ませない為には、「金銭を教会に納める」或いは「牧師に支払う」という様な言い方は避けて、取り敢えずは「神様に捧げる」と言わなければならない。教会生活を送る上での多くの慣習が、そんな風にいくらか不自然なやり方で神様と結びつけられ成り立っている…
怒鳴られた次の日曜の朝、先生は私に冷たくもなくまた優しくでもなく、まるで何事もなかったかのように接してきた。私も何事も無かったように先生に接した。この出来事によって別段私の「教会」への感情が変化するようなことは無かった。なぜって私は元々、母に連れられ初めて教会の門を潜った日からずっと、教会のことが好きではなかった訳だから。
だがそれから数年後の復活祭の朝、中学生となった私はその教会で、同じ牧師先生から洗礼を受ける。
そのことに抵抗はなかった。詰まるところ、私はやはり神様の事が「好き」だったのだ。カトリックの幼稚園でシスターに神様のことを教えてもらったときから。そして(たとえ牧師先生に怒鳴られようと)礼拝で歌う賛美歌の響きの中に、しばしば私は教会生活を飛び越えたところでの神様と自分との素朴な交流というものを感じていた。牧師先生が礼拝説教の中で語る聖書の言葉については時に反発を感じたけれど、それが賛美歌の歌詞として耳に入ってくると不思議と素直に受け容れられもしたのだった。
今、このだだっ広い闇の空間をひとり漂いながら、私は嘗て教会で歌った賛美歌の数々を心に上らせている。以前、あれほどに嫌っていた教会だったにもかかわらず、毎週の礼拝や集会を通して出会ったクリスチャンたちそのままの歌声を心に思い描いて、生まれ故郷に居るかのような無上の安らかさの中に憩うている。
神様はおられる。この宇宙が存在するのは神様がおられることと同義、即ち神様は宇宙そのものだ。私は自分の身体の感覚が(身体は無いが感覚だけは今もある)人体として存在していた頃よりも遙かに大きく広がっていることを知った。その大きさは測りようもないが、感覚に従えば差し渡し数百メートル位の小振りな小惑星ほどか?…だが、それほどに大きな空間を占める「私…」であるにもかかわらず、その巨大な空間内、即ち「私…」の内部に、分子にもなれずひとり漂う孤独な水素原子たちの震え彷徨う様子を感じることが出来る……おお、そうだ!神様もきっとこんな風に、宇宙の広さに比べれば驚くほどちっぽけな生き物ひとつひとつの魂の彷徨をじっと見守っておられるのだ。この無音世界で今、私の意識の中をいつだったかの信徒集会で聴いた四部合唱、賛美歌「静けき河の岸辺を」の歌声が、大河のようにゆったりと流れ続けている。
そして、宇宙に抱かれ私は眠った。
眠る?…そう、既に身体的存在ではなくなっている私であっても、常に意識を同じ調子で継続し続ける事など出来はしない。魂は今、休息を必要としている。
☆ ☆ ☆
…どれくらい眠ったろう。何時間?何日?…いや、何年?何世紀?目覚めると私は周りの様子が眠りに入る前とは明らかに変化していることに気づいた…即ち、周囲に星の光が全くない。何もない!
「私…」を包み取り巻いているのは完全な闇だ。これはどうした事なのか?
その説明として私は、自分が今、銀河も星もなく何億光年もの直径を持つといわれる超空洞空間(=ボイド)の中を漂っている為なのではないかと考えてみた。だが眠る前の、自分の身体が小惑星ほどの大きさの空間を占めているというあの卓越した感覚も今は消えてしまっている。ここには空間すらない。即ち、私はいよいよ自分が宇宙を漂っているという幻想さえも失ってしまったようなのだ。
この変化は眠っている間に起こったものだ。そしてその間、私は夢らしきものをみていた事に思い至る。いや、それは夢というよりは思考、というよりは想像…いやいや、だから本当は夢なんてみていなかったのかもしれない。自分が夢をみていたのではないかと思うことで、それはどんな夢だったのだろうと心に思い描いているだけなのかもしれない。何しろ外部からの刺激が完全に消滅してしまった今となっては、意識は過去の出来事を反芻するか、想像を自由に広げるよりほかにすることがない。音も光も、そして空間さえもないこの状況では、記憶と想像の境界がとても曖昧になってしまうのだ。
さて、その「見たのかもしれない夢」とはこんなものだった…
夢は現在私が経験している非現実的・彼岸的状況とは裏腹のリアルな日常生活の断片のようなものから出来ていた。
とても長い夢…その夢の中では、私は例のハンス薬局の物干し場から「浮上」しておらず、亜世ちゃんの居ないあの家で、そのまま孤独で単調な生活を続けていた。
ウイルスは既に世界から駆逐されていて、アーケード街には人通りが戻り、私は日々、独りハンス薬局の店頭に立って薬を売っている。
客は時々ぽつりとやってきた。私は客に所望の薬名を訊き棚から商品を取り出して静かに渡す。
週末の夜は嫌いだ。
週末も深夜になれば店の周りの繁華街は酩酊した若者たちで溢れる。
夕方の熱が残る湿っぽい空気に彼らのざわめく声が溶ける。
男たちは常時奇声を挙げ、女たちの嬌声がそれを追う。
店の前のアスファルトのそこここには大量に捨てられ散乱する菓子の袋や潰れた空き缶。シャッターの下部にひっ掛けられた吐瀉物や尿。
これは繁華街に住んでいる者の宿命なのか、亜世ちゃんと親父さんはこれまで、こういったものを黙々と処理してきたのか…
店は父娘ふたりが、そうやってずっと大切に守ってきたものだ。私は休日が明けた朝にはいつかしたようにそれらの汚れを丁寧に洗い流す。序でに同様に汚されている近くの店の周辺も掃除し、汚されたのが自分たちの店だけでなかったことに幾らか慰められる。
正直言えば、私はウイルスが蔓延し始めた頃の人通りの消えた静かな街が好きだった。亜世ちゃんとふたり過ごした静かな夜が好きだった。
昼間は薬を売る。
客に商品を手渡しながら薬の名前を告げ成分と効能を説明する。
それを聞く客たちの顔には一様に生気がない。
ああ、そうだよ。私は週末の騒々しい夜が大嫌いなんだ。でも、私は知っている、私の心の一隅にあの忌々しい喧噪と同じものが潜んでいることを。私にも若い時代があり、その頃には彼らの持つ傍若無人さも私の一部だった。家を出て一人暮らしを始めた頃の高揚感の中で、私も週末の夜のあの騒がしい若者たちと同じ心を持っていた。もちろん私には一緒に騒ぐような友達など居なかったけれど、粗野な心であるという点では彼らと同類だったんだ。
平日の夜が来て、定時になれば店を閉める。シャッターを降ろそうとしたその時、下の隙間から素早く一匹の猫が店内へと駆け込んで来た。キジトラ模様の澄ました顔…いや違う、もっと精神的な、まるで何かを悟った風な顔でこちらを見ている。
この表情、見覚えがあるぞ…そうだ、第さんだ!
思った瞬間、猫が(口は閉じたまま)いきなり第さんの声で語りかけてきた。
…いつかボクがお話した事を覚えておられますかな?
…あなたの名字「鹿野谷」が、奇妙にも物理学者ニュートンの名前と一致しているという事、続けて「それはあなたの名前に限った事ではないのです」と付け加えた事を。
《若い頃、あなたはお母様のお取り計らいで「咲蓉」さんと婚約された。でも咲蓉さんにはSくんという幼なじみの従兄弟がいて、あなたは、ふたりの親密さを不快に感じておられた。咲蓉さんとの婚約は、あなたにそれまで経験したことのない喜びを与えたと同時に、苦しみや惨めさをも味わわせる結果となった。耐えられなくなってあなたは彼女から逃げ出し、人生の黄昏を迎える頃にやっと理想のパートナーである亜世子さんと出会われた。でもその亜世子さんは…》
…では、謎解きに移りましょう。
《鹿野谷さん、あなたの人生には先ず「咲蓉さん」が現れます。でもあなたは咲蓉さんから逃げ出し、後に彼女とは全く異なったタイプの女性…あなたの無意識が造り出した理想のパートナー、「ハンス薬局の亜世子さん」と出会うのです。「咲蓉さん」と「ハンス薬局の亜世子さん」…「SAYO」と「HANS・AYO」…作用と反作用…そうなのです!ニュートンと関連しているのはあなたのお名前だけではなかった。あなたの人生に現れた二人の女性の名前もまた、ニュートンが提唱した「運動の法則」の名称と見事に一致していた。咲蓉さんが作用で亜世子さんは反作用。二人の女性像は正反対にして一対のもの。つまり全てはあなたの意識の中で組立られた精緻な幻想だったのです!》
ああ、これは最早先に見たであろう夢の想起などではない。これは無意識の思考、即ち、私の意識の深いところに住む私の一部分としての第さんが語っているものだ。私は話の流れのそのままに、この思考の続きを第さんの声として聞く。
《…そして「SAYO」の文字からあなたの苦しみのもととなっている人物の頭文字「S」を除いてみましょう、すると「AYO」となるのですね。さらに「作用・反作用の法則」は、ニュートン力学では「運動の第三(第さん!)法則」と呼ばれているのです!》
成程な、これが証拠というわけか。結局は何もかも「私」という意識の深いところから来たものだったという…。人生は偶然の連続によって作られたものではない。物語作家が屡々、自らの創作に登場する人物の名前の中に密かに何らかの意味を隠しておくように、私の人生もまた、私の意識の奥底にあるものが作り出した「物語」だったというわけだ。
「第さんである猫」は語り終えるとシャッターの隙間をすり抜け何処かへ行ってしまった。同時に私の意識の中に立ち上がっていたハンス薬局内部のイメージも消え、無音で光もない、空間さえもない状態が戻ってくる。この無の世界に居ながらも未だ「意識」だけはある。私は思考をやめていない。だが、新しい刺激を受け取らないこの状態が永遠に続くのなら、私の意識は過去の追想や既に得た知識のみを基にした想像を何百万回も繰り返す事になるのだろう。繰り返すうち魂は疲弊し、ものが擦り切れるように、植物が枯れるようにゆっくりと死んでいくのだろう。緩慢に無へと落ち込んで行くのだろう。それが即ち自我の終焉ということなのか?
自我が消滅すること自体は、今となっては左程怖くない。ただ人生を通して自分の思いや考えを優先した結果、人並みの自信も持てず何者にも成れずに終わってしまったという、そんな「物語」しか紡げなかった私という存在がとても恥ずかしくて惨めなのだ。
…ううん、そんなことないよ。
私の内に住む亜世ちゃんが語りかけてくる。でも詰まるところそれは自分の内部だけで完結している会話というに過ぎない。
…違うわ。わたしはわたしとしてちゃんと存在してる。ほら、わたしに触れてみて!
触れる?お互い身体を持たないのに?空間すらないというのに?
だが、試しに私は、自分が腕を前いっぱいに伸ばしているところを心に描いてみる。
と、「指先」が柔らかい何かに触れた。
これは?…空間が、さらに身体感覚が復活したということか?
しかしその感覚は身体を失う以前に経験した「触れる」というのとは少し違っていた。これはもっと全感覚的なもの…温かさやしなやかさといった感触に加えて、色合いを見たり楽音を聴くようなそんな感覚をも伴っているのだ。
触れたのは二の腕あたりか、私は彼女の皮膚の触感の向こうに暖色系の色彩を見、また、優しい弾力の深みに飽和した和音の柔らかな響きを聴いた。ややあって彼女の腕が大きく動くとその掌が私の手を捕らえる。私は力を込めその手をこちらへと引き寄せる。程なく無重力下にある彼女と私はぶつかり合い、慣性に従ってお互いがお互いの身体に強く押し当てられる。意識の中で何かが弾け虹が煌めく。その刹那を逃さず私は彼女を抱きしめる。
彼女の…亜世ちゃんの身体は以前と変わらず柔らかくて固い。その肌触りから私はふたりが共に裸である事を知る。
(ああ、大好きな亜世ちゃん!僕のところに戻ってきてくれたんだな)
…まあ、そうね。戻ってきたって言われるとちょっと違うかもしれないけれど。
謎めいた言葉に続けて、彼女は言う。
…ねえ、知ってる?こうやって身体がくっついているとどうしてこんなに心地いいのか。それはね、わたしたちが元々はみんな神様の一部分だったからよ。わたしたちは皆、もとはひとつだった…そうよ、宇宙は幻。宇宙というのはね、とんでもなく大きな意識=【神意識】がみている果てない夢なの。わたしたちの意識はそんな【神意識】のほんの小さな部分が千切れて出来たものなのよ。
(本当?どうして知ってるの?そんな事)
…だってわたしはあなたよりずっと前からこちらの領域に居るんだもの。
(でも、ここに来る前にはハンス薬局で僕と一緒に暮らしてたじゃないか?だからここに来たのは亜世ちゃんも僕とほぼ同時…)
だが、ここで私は思い至る。私が一緒に暮らしていたのは「私の幻想の中の亜世ちゃん」だったと。今、腕の中に居る彼女はそうじゃない。
「…わたしはわたしとして存在してる…」
そうなんだ、ここに居るのは小学校の時の同級生で、高校の頃に親父さんと一緒にあのダム湖の辺りで行方不明になった亜世ちゃん。私の意識とは別のところで「彼女自身の意識」として存在していて、私の意識からは完全に独立している本物の亜世ちゃんなんだ!
…そうよ。この宇宙にたったひとつあなたの意識だけがあるだなんて思わないでね。そんなのは大間違い(もう、ホントに困ったナルシスさんね!)。神様から千切れてできた意識は無数にあるわ。そして今、あなたとわたしがこうやって言葉を交わしているように、そのひとつひとつの小さな意識の見ている幻がシンクロする事もたまにあるの。もちろんふたつの幻が合体してひとつの世界を作るなんて事はなくて【神意識】から千切れた意識はみんなそれぞれに孤独なんだけれど。
ひとつひとつの意識がみている幻はね、似ることはあってもやっぱり別々のものなのね。だからわたしのみている幻想の中ではわたしの名前は亜世子じゃないしあなたも鹿野谷くんって名前じゃない。
(つまり我々の意識は巨大な【神意識】の欠片であり雛形、それが人の数だけ存在する…ってことか?「人は神に似せて造られた」みたいな。だから個々の意識は皆「空間」や「時間」という同じ形式の中に住んでいて、それぞれ内容は違えど同じ論理、同じ因果律が成立する幻のなかに生きている…)
…ええ、まあそうね。でも、実際は人の意識だけじゃない。動物も、そして植物も同じよ。だって彼らも因果律を知ってるもの。それどころか机も椅子も、小石も砂粒も、世界にあるあらゆるものが【神意識】の一部、どんなものにも神様の霊が宿っているわ。神様はそんなひとつひとつの意識が作り出す幻想を遙かな高みから眺めておられるの。
(なるほど、全ては神の似姿…でも、やはり物と生物は違う。動物と人間の意識も違う…)
…それは【神意識】から千切れた意識の量の違いね。
(同じ人間でもそれぞれ個性の違いがあるけど?)
…それはね、【神意識】の性質が一様では無いからなの。いいえ、神様は完全、だからもちろん殆ど一様よ。でもそこにほんの少しだけ、活きた存在としての必然的な「ゆらぎ」があって、千切れた部分が異なる以上その「ゆらぎ」のちょっとした違いが意識それぞれの個性の違いになるのだわ。
聞いて私は驚嘆した。何と!完全無比である筈の【神意識】にゆらぎが存在する!ガリレイが居た昔、歪みも傷もない全き球体と考えられていた月の表面に無数のクレーターが存在していたように。また、確固たる存在であるかに見えた物質が、粒子レヴェルでは量子論的ゆらぎを持っていたのと同様に!
個々の意識がそんな「ゆらぎ」のほんの一部分であるというのなら、間もなく私は今の状態を終えて巨大な【神意識】へと呑み込まれるのだろう。一滴の水が大洋に落ちて混ざり消える…そんな風に、私も懐かしい神様の許へと還る。自我を失い、小さな「ゆらぎ」のひとつに戻って永遠に神様の御許(みもと)に安らう事になるのだろう。
…うん、まあそうね。確かにそうなんだけど…そうなるのは残念ながらまだずっと先の話よ。そこに至るまでには…まだまだ……気の…遠く…なるような…時間が……
………
何かを言い掛けたまま、亜世ちゃんは突然、揺らめくように消えた。彼女の幻想と私の幻想のシンクロが切れたのだ。身体感覚はまだ残っているが私の腕の中にもう彼女は居ない。私は少し後悔した、こんなに早くシンクロが外れるのなら、会話など後に回してキスを交わしたかった…いや、出来れば右の掌でそっと彼女の心臓の位置を探りたかった。愛おしい肋(あばら)の感触とともに、その鼓動が奏でる音楽を覚えておきたかったから。本当はどこまでが幻なのかなんて分からない。千切れた意識が無数にあると亜世ちゃんは言ったけれど、その亜世ちゃんの言葉すら私が見ている幻想の中にあって、やはりこの世界は私の意識のみで出来ているのかもしれない。
だが…ああ、もうこんなのは考えても無駄なこと!大体、客観的真理なんてもの自体があるとは限らないのだから、それよりも…私は亜世ちゃんが最後に言い掛けた事の、その続きについて思いを巡らせてみる。
自分は神様の許へ還るのではないのか?
そうでないなら、これから私に何が起こるのか?
ここで突然思い出したことがある。思い出してみれば、何故この事を今まで忘れていたのか不思議なほどだ。私には完結していないもうひとつの人生があった。その人生に於いて私は咲蓉の夫だった。結婚式の後で突然倒れ、意識不明のまま病室に置かれていた。そして、私は「瞼を開こう」とした………
ハンス薬局の一室で、私は咲蓉からの電話を受けた後、彼女の身を案じて「瞼を開こう」としたのだ。瞼を開き掛けたその時、視野の向こうには母の驚いた顔があり、同時に母の叫び声を聞いた。私は怖くなり咄嗟に瞼を閉じた。
今、身体感覚は戻っている。今なら可能かもしれない。瞼を開き、もうひとつの人生へと飛び込めるのかも…そうすれば、1970年代の自分に戻って前のものとは違う新しい生の経験を始める事ができるかもしれない。身体感覚が消えてしまわない内に「瞼を開き」さえすれば!
……だが怖かった。嵐の海に飛び込むかの様な恐怖があった。第一、何故再び生へと戻らなければならないのか、その意味も理由も全く分からない。いや、理由なんてないのだろう。この宇宙では全ては変化し止まる事なく巡り進んでゆく。とすれば、砂粒にも等しい我々は、訳の分からぬままこの世界の底に広がる「大いなる意識」の流れに身をゆだねるより他はないのだろう。
気がつくと私は祈っていた。魂が神様を求めたのだ。暗い夜、死への恐怖に目覚め聖書を胸に抱き眠った子どもの頃のように、「神様、来てください!」と激しく祈った。教会に通っていた頃、お祈りをする時にはいつも人目を気にし、言葉を卒なく纏めることだけに心を配ったものだった。だが今は違う、私は叫んでいるのだ。神様に向け叫んでいる。もちろん神様はそれで何かを成されるということはない。神様はいつもただ見ておられるのみ。それで良い。それが神様だ。見ていてくださり、魂が叫ぶのを聴いていて下さるということがどれほど安心に満ちた素晴らしいことであるかを私は知っている。
そして自然と「瞼」が開いた。薄く開けた瞼の隙間から強烈な「現実の光」が一挙に網膜へとなだれ込む。その刹那、ほんの0.1秒ほどの刹那に私は知った。闇夜に稲妻が光り、一瞬にして周囲の光景を視認するかのように、私はこの世界の真理を見た。それが客観的真理であるかどうかなんて事はどうでも良かった。少なくともそれは「私に取っての真実」であるに違いないのだから………
☆ ☆ ☆
亜世ちゃん(聞こえるかな?)…
きみがさっき言い掛けたのはこういう事だったんじゃないだろうか?
即ち、意識が【神意識】に呑まれるまでに僕たちはまだまだ沢山の生を経験しなければならないと。
神様のもとへ行くにはものすごく長い時間を経なければならないと。
輪廻転生…これまでこの言葉を何度も見聞きしてきたけれど、その度に僕はいつも不思議に思うことがあったんだ。生まれ変わって別の人生を歩むのだとすれば、その生まれ変わった自分は前世の自分とどう関わり合いがあるのだろうか?記憶もなく別人に生まれ変わるのなら、その人物は本当に自分であると言えるのか?
でも、違うんだね。生まれ変わっても、両親や生育環境が変わったとしても、個性の基本の部分はきっとそのままなんだ。何故って自分というのは、たとえ違った生を生き直していても【神意識】から千切れたゆらぎのパターンはいつだって同じなんだから。
僕たち被造物は幾つもの幻を生きる。眠りの夢の中での僕の個性がやはり僕のものであるのと同様に、僕たちは何度も同じ自分としての生を転生を繰り返しながら生き直す。いや、それどころかひとつの生を生きている途中でも、色んな人生の局面でその生は幾つもの枝に分岐し続けるのだから、そのそれぞれの枝にそれぞれの自分が居て、魂は幾度も分岐した時点へと回帰する。自分に取っての少しずつ違った生の時間が繰り返され、結局全てのヴァリエーションを経験し直す事になる…ということは、これはもう、一兆の一兆倍の、さらにそれを一兆乗したくらいの、気の遠くなるほど多くの「生」を生き直すことになるんだね。
そんな全ての人生の幻を経験した果てに僕たちは初めて「自分」になれる…それぞれの生は自分へと向かう旅なんだ。そしてその人が本当にその人自身となり得たとき、神様はきっとこう仰る…「辛かったろう、淋しかったろう、悲しかったろう、さぞ疲れたろうな。でも、もう苦しみは終わった。さあ、早くわたしのところへ戻っておいで」と、
……………
おやおや、どうやら僕は未だに擬人化された神様のイメージを引き摺っているみたいだな。
まあそれが人間の限界というものなんだろう。
僕たちみたいに幼くちっぽけな魂には、多分、聖書に書いてあるような神様だとか物語だとかが必要なんだね。全ての根源が【神意識】なのだとしても、それがこの宇宙の真理であったとしても、人間はそんな抽象的な存在に向けて祈ったり、また救われたりする事はないのだろうから。
だから神様は
僕の中ではこれからもずっと
優しい目をした白髪の老人なんだろうなと思うんだ
☆ ☆ ☆
それから0.9秒後に(…もしくは9千億年の時を経たその後に)、私は大きく瞼を開き1970年代の自分へと回帰した。
《小説「神様、all right」終わり(続編につづく)》
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あとがき
第1部から第4部まではどうなっているのかというと、かなり恥ずかしい内容を含んでいるので書き直して整理する必要がありそうです。
でも面倒くさがり屋なので多分そのままになってしまう事でしょう。
消去する積もりもないので、ameblo「小説 神様、all right」で検索下されば読む事は可能です。