22 語学オタクの喜び ② 聴く(タイ語、北京語、スカルドゥの言葉)
タイ語の響きが好きだ。まいぺんら〜い きんかうれ〜う・・・なんというか、にゃんにゃんにゃあ〜んと聞こえる感じ。あの笑っているような文字が音になって、くるんくるんま〜い(適当)なので、もう、へらへら嬉しくて脱力する。
タイに着いて空港から街に出て、看板や車のナンバープレートのくるんくるん文字を見て、ぺむぺむかぁ〜(適当)などと話し声を聞くと、全然わからないのに、
「ああ〜 ただいまぁ〜 バンコク〜」
っ帰ってきた気になる。
縁あってしばらく勉強したのは隣国ラオスのラオ語だ。
ラオ語を習ったら、バンコクのマッサージ店でスタッフの会話が少し聞き取れるようになった。ラオ語はタイの東北方言とほぼ同じらしいから、彼ら彼女らは東北地方かラオス出身なのだろう。
バックパッカー向けマッサージ屋はどこもオープンなつくりで、広い部屋にマットレスがびっしり敷いてあるだけ。で、空いたマットに外国人をつぎつぎ寝転がし、体を押したり揉んだりしながら、隣り合ったスタッフ同士が小声で、
「休憩、何時から?」
「お昼なに食べた?」
なんてことをぼそぼそ話している。ま、わかるのはその程度で、ほとんどは心地よく聞き流しているのだけど。
が、しかし、ある日。
その日担当のおばちゃんスタッフが、仰向けになったわたしの鎖骨から胸の辺りを触って、隣の同僚に、
「の〜い」
と言った。
の〜い・・・小さい。
こらこら。ラオ語か東北弁か知らんけど、お客のカラダを笑うな。
おそらくどんな言語にも方言というものが発生するのだと思う。考えてみれば不思議だけど。
北京語も、“普通話”などと呼ばれて広い中国の標準語とされているけれど、場所によって微妙に違う(全然違うこともある)ようだ。
北京では、単語の最後に〈〜er〉をつけることがある。「ぁ〜る」の「る」は、舌先が口内のどこにもつかない、英語のR的な音。
例えば、「どういたしまして」の「めい しぃ」が、北京弁だと「めい しぁ〜(る)」になる。
北京の繁華街では、やたらとこの「ぁ〜(る)」が耳につく。わたしは関西人なので、関東方面の語尾「〜じゃん」を聞くと小っ恥ずかしいというか(ほんまに言うんや、みたいな)違和感があるのだけど、「ぁ〜(る)」は、「じゃん」に近いのではないか、と勝手に思う。
中国のどこだったか、北京から遠く離れた街で、地元の人に向かって何かの拍子に「めい しぁ〜(る)」と言ったら、「そんな下品な言い方をするものでない。めい しぃ」と注意され、直された。
やっぱり「じゃん」だ。
それにしても世界には沢山の言葉があって本当に楽しい。
パキスタン北東部スカルドゥの小さな食堂で、店の少年に「ジャパニ?」と聞かれた。登山客のベースキャンプに近い町なので外国人旅行者が多く、宿のスタッフや商店主などは英語が流暢だ(なので、英語苦手なわたしはおたおたする)。
そうだよジャパニだよ、と答えると、少年は「ぼくの言葉と日本語は似てるんだよ」と言う。「日本語で、ワン、ツー、スリーって数えてみて」
「オーケー。いち、にぃ、さん」わたしが声に出すと少年が、
「おー! ほらね、ほらね、ぼくの言葉では、っちー、にっ、さん・・・。似てるでしょう?日本語と兄弟じゃない?(意訳)」と嬉しそうに言った。
少年によると”ぼくの言葉”はチベットから来たらしい。そういえば、少年はイタリア映画の子役みたいな雰囲気だが、もう一人の子はチベット僧のような顔立ちだ。
谷ひとつ越えると言語が変わると言われている地域で、”ぼくの言葉”が何語なのかまったくわからなかった。
あのときああしていたらよかった。と、いろんなジャンルで悔やむのも、また旅の醍醐味(いや違う・・・)。”ぼくの言葉”の呼び名ぐらい尋ねておけばよかった。聞いたけど覚えてないのかもしれない。
それが、最近になって思いがけない再会があった。
書店でたまたま見つけた、吉岡乾『現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき。』(創元社 2019年刊)。もう、もう、これはまさに、大好きな北パキスタンの言葉の参考書ではないですか(そういう意図では書いてらっしゃらないと思うが)。それによると、”ぼくの言葉”はシナー語らしい。吉岡先生の言語分布図ではそこに当てはまる。
ただ、スカルドゥでの活動記録は書かれていないし、数の読み方も記載がなかったので、少年の母語がシナー語だったのかどうかは、自分でもう一回行って確かめないかぎり永遠にわからない。
言葉の面白さは限りない。
小さな集落で夜ごと話されている言葉、谷間にひっそり残っている言葉などをもっと知りたい。
誰も使わなくなりそうな言葉を救いたい。