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『持つべきもの』

『持つべきものは友だ』とは昔から言われる言葉だ。実際、窮地を友に救われて、心底そう感じたことは、人生を重ねると、一度や二度ではない。

 五十を超えた頃から、友人と旅に出るようになった。年に一、二度だが、まるで学生時代に戻ったかのようだ。自分たちの好きな事のためだけに時間やお金を費やす。非日常と自由を満喫する。子どもじみた事に目を輝かせてみたり、かと思えば、急に何歳も歳をとって年相応の顔をして、ちょっと高価な土産物と睨めっこしたり。そんな七変化も楽しむ

 昨年は、初めて北陸新幹線を使って金沢を訪れた。十一月の、見事に秋色に彩られた街を、友とふたりで見て回った。新卒で旅行会社に入社し、添乗員として『兼六園』に来て以来、約三十五年振り。

 先ず、金沢駅前で一日フリーパスを購入し、市内循環バスを駆使する。事前の計画を大凡制覇し、たった二日間だというのに、嫌というほどのお土産を抱えて大笑いした。 

 旅の間、友はずっと私に付き合ってくれた。私も、友の楽しむ顔が、殊の外嬉しかった。今回の旅は、彼女からの誘いだった。
 その日、確か二ヶ月振りくらいだったか、久しぶりに会った私に、リフレッシュが必要と判断したのだろう。彼女はふと「どこかに旅しよう」と切り出した。
 確かに、様々なことで私は少し疲れていたかもしれない。

 市場、神社、美術館と巡り、閉館間際に鈴木大拙館を訪れた。そこで我々はある光景と出会うことになる。
 長方形に区切られた『水鏡の庭』という名の場所は、風が穏やかだったこともあり、静かに、その名の通りの水鏡を作って広がっていた。その傍に立つ木々は、今まさにさまざまな紅や黄に染まり、水面に鮮やかに映り込んでいる。まるで一幅の絵画のように。思わず息を呑んだ。
 あちらこちらに観光客の姿はあるのだが、しんと静まり返っている。時折屋根から落ちる水滴の「ぽちゃん」という音だけが清らかに響く。  
 みな、それぞれの内面と真正面から対峙しているようだった。私もそうだった。ほんのいっときだったが、ふっと吸い込まれるように。
 心洗われるとは、こんな瞬間を言うのかもしれない。

 私は友とここに来られたことに感謝した。彼女が私を旅に誘った理由は、おそらく、こんな時間を私が過ごせるようにと慮ってくれたからだと思う。隣りに佇む、私の『持つべきもの』の温かな気配に、そんなことを思いながら、自分も誰かのためにそうありたいと願った。

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