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摩天楼に見守られ産ぶ声を上げたのは

 かなり若い頃だが、私は子どもを産むつもりはなかった。と言うより、産まない方がいいと考えていた。
 理由は至って簡単。子どもは親に似るだろう。こんなに生意気で自分勝手で、その上瞬間湯沸かし器並みに直ぐにカッとなるような自分と、万が一にも瓜二つの人間を世に送り出すことを善しとしなかったのだ。仲間を大切にすることは誓って守るが、自己中心的で人の助言にも耳を傾けない、そんなteenagerだった。(今も変わらないかも‥)

 中学卒業の日、バレー部の恩師からのはなむけの言葉は、サイン帳に大きめの字で、『無知の知』。
 私はその言葉を知らなかったが、説明は必要なかった。一瞬で論破されたような、思い知らされたような強烈な一撃をくらった。

 『無知の知』はソクラテスの言葉。無知であることそれ自体よりも、無知であるということを知らない(気づいていない)ことの方が罪深いというものだ。つまり自分が無知であることを知ることこそが重要だと。

 このカウンターパンチで、15歳は自らの無知、エゴや独りよがりを省みたはずだ、確か。

 さて、それからそれから‥

 結婚して一年ほど経ったお盆休みの朝、横浜のこじんまりとした賃貸アパートで電話が鳴った。東京の兄からだ。
 義姉の陣痛が始まった。これから病院へ向かうけれど、おにーちゃんは仕事があって出かけなければならない。病院に行ってくれるか?というものだった。
 行かないわけにはいかんだろう。すぐに新宿の大学病院へ向かった。

 姉は陣痛室という、いかにも痛そうな名の部屋に居た。ベッドの上で痛みの波に耐えている。代わってあげられるわけでもないし、正直、何もしてあげられない。お産経験のない私がここに来たところで、実際何をどうしてあげたら良いのかわからないのだ。ただ隣に座って、大丈夫?大丈夫?と聞くのが関の山だった。
 しかし、姉が事前に習っていた呼吸法を私に伝授。次の痛みが来た時、姉の背をさすりながら全集中、「ヒーヒーフー」の呼吸で何とか乗り切った。

 長い長い時間を経て、いよいよ分娩室へ。がんばって〜!と送り出す。

 午前中にここに来たのに、もうすっかり日が暮れていた。そう言えば何も食べていない。誰もいなくなった陣痛室の大きな窓からふと空を見上げると、大都会新宿の高層ビル群が遥か上空から私を見下ろしていた。夜空にそびえ立つ摩天楼はキラキラと輝き、今まさに母になろうとしている命と、生まれ来ようとしている新たな命を見守ってくれている。

 美しい

 こんな都会の真ん中で、と改めて驚いた。私は何か温かな神秘を感じずにはいられなかった。じわじわと様々な思いが湧き出していた。


 と、そこへ兄がやって来た。すっかり冷めたケンタッキーを持って。
「あー、おにーちゃん!」
 その時だ。
「〇〇さーん、生まれましたよー、こちらでーす」やや遠方から看護師さんの声。

 ケンタッキーを持たされて一瞬私は遅れを取った。そしてなんと、赤ちゃんご対面第一号の座をあっさり兄に奪われた。運動音痴なくせに、こういう時の兄のダッシュはとびきり速い。

 「えーっ!ちょい待ちー!
 私、何時間もここで‥」

 なに?この漫画みたいな話。まぁ、今回は百歩譲ってあげるけど、一番大変なところはすっ飛ばして、一番美味しいところを持っていくとは。

 兎にも角にも、兄は晴れて父に、私は叔母になった。ひとえに義姉の懸命な大仕事の賜物。しかし私はまるで自分も一緒にこの子を産んだ!くらいの感動の渦に巻き込まれていた。

 私の“初姪”。リュックに粉ミルク、両手にオムツのパックを持ち、横浜から電車に揺られせっせと会いに行ったものだ。


 相変わらず、自分にめちゃくちゃそっくりな子どもを誕生させていいものか、少し悩み気味の私の気持ちに変化が現れ、二年後母になった。

 きっかけは言うまでもない。摩天楼に見守られ産ぶ声を上げた姪、その誕生までの擬似体験。そして何と言ってもこの初姪“アヤメ”が、とんでもなく可愛いかったからに他ならない。

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