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文学部に行きたかった

あれは高三の今くらいの時期だったかな。

高三になってからほとんど学校に行ってなかった僕が、担任に呼び出されて久しぶりに学校を訪れたのは。

痩せぎすでいかにも神経質そうな、その数学教師は、社交辞令も何もなく、会うなり単刀直入に

「おまえ、このままだと留年やからなあ」

と宣告したのだった。

「は、はあ、そうですか」

と僕は蚊の鳴くような声で、でも、どこか他人事みたいに答えていた。

なにしろ当時の僕は、こんな自分にも何がしかの未来が待っているのだ、という事実すらすっかり忘れていたからだ。

そして、このとき僕はずっと無意識に右手で無数の刀疵が刻まれた左手首を抑えていた。

でも、そんなまさに生きる屍に向かって、彼は、こんな提案をしてきたのだった。

「ただし、おまえが三学期、一日も休まなければ、卒業させてやるよ」

と。

当時は全く分からなかったけど、

今、振り返ると、

「これぞまさに慧眼だ」

と思うのだ。

なぜなら、彼の目の前に座る生命力のかけらもないウスラバカカゲロウみたいなその青年は、その実、

あくまで死んだふりをしていただけだったからだ。

そう、彼の心のずっーとずっーと奥底の方には、消え入りそうになりながらも

「生きたい」

と切実に願う小さな生命の炎がゆらゆらと燃えていたのだ。

面談の最後、そんな僕に向かって、とりあえず聴いとくか、みたいな顔をしながら先生が尋ねてきた。

「おまえ、どっか行きたい学部とかあるんか」

僕は、ほとんど反射的に

「文学部です」

と答えていた。

すると彼は一瞬、まるでマンガみたいにぽかんと大きく口を開けた後、すぐにいつものクールな表情に戻り、

「ふんっ!」

と大きく鼻で笑ったのだった。

まあ彼はバリバリ理数クラスの担任なのだから、このリアクションはむしろ大正解なのだけど。

しかし、このときのことを思い出すたびに僕が思わず吹き出しそうになるのは、そんなリアクションをする彼の面構えが、当時、自分が愛読していた「断腸亭日乗」の永井荷風そっくりだったからである。

以上、これが僕の半世紀に渡る人生を通じて、唯一、文学に触れていた(いや、溺れていた)時期のエピソードである。

ちなみに、蛇足ながら、僕はその翌年の春に無事、高校を卒業し、さらにその翌年には、大学へ進学する。

学部は、なんとなく間を取って、

理学部物理学科

を選んだ。

〈おしまいける〉


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