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チェスガルテン創世記【5】
第一章――カザド【Ⅳ】――
このように隠された場所さえ失われるものなら、この世のどこに生きる所があると言うのだろう。この大地は地の民のものであり、神すらいないのに。
(そうだった……祈る神などいないのだった……)
絶望が音もなく、胸の内に広がりつつあった。かつては怒りではねのけてきたが、今はもう、怒りすら無意味だった。ずっと握りしめていた剣を、カザドはとりつかれたように眺めた。
それで何をしようという明確な意思があったわけではなかったが、のろのろと自分の喉元に、その刃をあてがった。
そうすべきだという気がした。
それしかもう、ないだろう。
もう一度、哀れな少女へ目をやった時だった。背後で雪の沈む音がして、カザドが思わず振り返ると、雄叫びをあげた何かが飛びかかってきた。
あわやのところで避けたカザドだったが、生温かい物を鼻先に浴びて顔をしかめた。どこか傷つけられたらしい。野犬か狼か、血の臭いに誘われた獣がいる。
カザドは舌打ちし、痛みを感じるより早く立ちあがって剣を構えた。
いくら望みなど無くとも、女神のしもべに与えられる死はごめんだ。腐った死肉ならばくれてやる。欲しければそれでも食《は》んでいろ!
だが獣が跳びすさった場所にいたのは、野犬でも狼でもなかった。
べたりと張り付く黒い汚れの中に混じった、差し込む様な夜明けの群青。
そこには青い目の子供がいた。
後ずさってカザドは子供のふりまわす木の枝を避けた。一撃、また一撃と避けるたびに、カザドに血が跳んだ。
子供が襲いかかってくるたびに足元に赤い滴りができた。その血は暖かい。
やっとカザドは子供の衣類の汚れの訳に気付いた。
「やめろ……おい、やめないか!」
カザドは子供の突き出した腕を脇で挟み、幻が消える前にと羽交い絞めにした。すると子供はじだんだを踏んで、逃れようともがいた。
思わず、カザドはその小さな体を抱きしめた。――子供はひどく暴れた。折れんばかりに体をのけぞらせて、がらがらにしゃがれた声で悲鳴をあげた。
「暴れるな! けがをしてるんだろう?」
子供は全身でカザドを拒絶していた。カザドが腕に力を込めれば込めるほど、その身がちぎれそうな程に声を張り上げた。
「大丈夫だ!」
ほとんど怒鳴りつけるように、カザドは叫んでいた。
「お前は助かった! 大丈夫、大丈夫だ! お前は助かったんだ!」
カザドは子供に負けじと叫び続けた。優しくなだめるということが、彼にはできなかった。腕の中にある小さなぬくもりにおおいに戸惑い、どうすればいいのかわからなかった。
世界の終りのような悲鳴も、子供の体力と共に和らいでいった。息継ぎの合間が長くなり、やがてそれは、か弱くてか細い、すすり泣きに変わっていった。
「大丈夫だ……大丈夫だ……」
それにつられるようにカザドの声も小さく、優しくなっていった。これまでこのように誰かを抱きしめたことなど一度もなかったと、ふいに気がついた。
* * *
燃え残ったあり合わせの物をかき集めて、カザドはどうにか幌馬車らしき物を作った。
外に繋いでいた愛馬は勢いの強くなる火に怯え、なだめるまでに苦労したがどうにか言うことを聞いてくれそうだった。
地の民たちは略奪はしなかったようだった。奴隷にできそうな若い者が殺されていたし、干し肉などの保存食も燃え残っていた。
破壊のみが目的だったのだ。
(やはりここは、地帝に見つかったのだ……)
使える物や食料をあらかた積め終えると、カザドは簡易的に作った寝床へと向かった。そこでは積みこまれた荷物に混じり、子供が青白い顔をさらして眠っていた。
子供はカザドが思ったよりもはるかに重症だった。
胸を肩から大きく切り裂かれていた。命を断つつもりで容赦なく刃が振り下ろされたのは間違いない。
さらに体のあちこちに打撲や裂傷も見られた。
カザドの脳裏にあの半裸の少女の姿がよぎった。この子供もまた、苦痛のなかで殺されたのだ。そして息を吹き返した。
何が子供の命を繋ぎとめたのかは不明だった。
寒さで傷口が凍ったのか、致命的な部分をわずかに逃れたのか。そのどちらとも言えた。
それにまだ助かったとは言えない。血を多く流した子供の体力は、著しく低下していた。一応傷を縫いはしたが発熱はまぬがれない。
膿をもったらもうおしまいだろう。
そういった傷にきく薬はいくらかあったが、この子供は小さすぎて耐えられるとは思えなかった。体の汚れもできればもう少し綺麗にしてやりたかった。
ふと、子供の目蓋が震えて開かれた。子供は虚ろな表情で何度か瞬いたあと、そばに腰かけるカザドに気付いて潤んだ青い目を向けた。
「よぉ、坊主……」
カザドはいくらか気後れしつつ呼びかけた。
また暴れるか叫ぶかするのではないかと警戒したのだが、子供はわずかに唇を動かし、かすれた声で訊ねてきた。
「ねえさまはどこ?……」と。それから続けて、
「にいさまはどこ? とおさまとかあさまは? どこ?……」と。たったそれだけ。
耳障りな声に、カザドは子供が切り捨てられるまでの時間を思った。助けを求めて泣き叫んだのだろう。
声が枯れるまで、ずっと。
しかし誰にもその声は届かなかった。
「……俺はな、坊主、カザドという。イル=カザドと」
カザドは話をそらして名乗りをあげた。
子供の身内がどうなったかを伝えることができなかった。どれほどの時がたとうと、できそうになかった。
「坊主はなんというんだ? 俺はお前を、どう呼べばいい?」
子供はしばらくじっと、カザドを見つめていた。敵か味方か、判別しようとしているのかもしれない。カザド自身、自分が子供にとってどのような存在なのかわからなかった。
命の恩人と呼べば聞こえはいいのかもしれない。事実、それほど違いはないのだろう。だがすべてはなりゆきなのだ。
惜しむらくはこの楽園の滅ぶ日に居合わせたイル=カザドという天の民が、どこにも寄る辺のない罪人だったことだ。
やがて子供が疲れた様子でささやいた。
「……フェンリル」
「フェンリル?」
「ヴァナシア=ディアス=サグム=フェンリル……」
その長い名前は、天の民の古い言葉だった。『ヴァナヘイムのディアスの三子フェンリル』そういう意味だ。
「そうか、立派な名だ」
フェンリル、と口の中で確かめながら、カザドは言った。
「疲れただろう、フェンリル。もう少し眠ると良い」
うながすとその目に不安の色が見えた気がして、カザドはぎこちない手つきでフェンリルの額を撫でてみた。
「大丈夫だ……恐ろしいことなど、もう起こらない」
それを信じたのかどうか、フェンリルは再び目蓋を下ろすと思いのほか早く寝息をたて始めた。
ふと、フェンリルの頭を撫でる指の間で、乾いた泥がぼろぼろと崩れ落ちた。
落ちた泥の中から柔らかな青い毛先が見えた時、カザドの胸中に言い知れぬ感情が去来した。止める間もなく、それはこぼれ落ちた。
慌ててカザドは外に出た。
岩のように硬くなった肌の上を、後から、後から、涙が転がり落ちてきて止まらなかった。そんなものとは覚えのある限り無縁だった。
誰かを憐んで泣くなど、信じられないことだった。
(何故俺なんだ、ここにいるのが。あの子供を見つけたのが……)
カザドはこれまで、この時まで、罪人であることを悔やんだことはなかった。明日の自分すら危ういのに。
天の助けかと言った青年の、たのむという言葉が思い出された。たのむと。追いかけることもできなくなった彼は、相手が何者であれ託すしかなかった。
その声を聞いた時からなのか、それともフェンリルが自分とそろいの青い髪の子供だったからなのか――見捨てると言う考えには、ついに思い至ることはなかった。
今はもう炎となった楽園の明るさが、目にしみた。カザドを責めるように炎はうねった。
――何故お前が、同族の血に濡れたお前が、その子を連れていくのだ。守りきる約束もできないのに――
きっと生き延びて見せると、カザドは鮮やかな楽園に誓った。必ず、と、声なき声で。
【次話】
【小説まとめ】
これまでとこれからと
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【らくがきとか】
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