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やっぱり本は信用できる。いろんな意味で
そもそも「信用」ってなんだろう?
「信用できる人」と聞いて思い浮かぶのはだれ?
私が身近で信用している人は、夫、子供、母、幼馴染、学生時代からの友人くらい。
信用=好きとも言える。
別に嫌いではないけど、信用もしていないのは職場の人とか、付き合いの浅い知人とか。
信用している人の共通点としては、関係の構築に「時間」が費やされていることかもしれない。
「時間」を費やしているのは「好き」だからだとも言えるのかも。
山口揚平さん著『1日3時間だけ働いておだやかに暮らすための思考法』では、「お金」より「信用」を貯めよと説いている。
さらに、今世紀半ばから2100年までには、信用主義経済が現実化すると言う。
「皆が信用を求めていて、それをしかも信用でやりとりする」世界ということだ。
手段と目的が信用という一点で統一した世界、それは名実ともにお金がなくなる世界を意味している。
これまで私にとっての「本は信用できる」の意味合いは、インターネットの情報と比較して、本を出版するまでには多くの人が携わっていること、情報の正確性の確認がされていること、出版元や著者(経歴や専門性)が明らかであること...みたいな意味だった。
確かにそれは事実だ。
でも私が最近考えた本における「信用」はまた別の視点になる。
『読書とは、著者と半日じっくり対話するような体験だ。』という一文をなにかの本で見かけた。
これは本当にそうだと思う。
本を1冊読むだけで、著者の思想とか哲学とか人柄まで、ものすごく分かる。
もちろんそれが全てではないし、知らないこともあるに決まってるのだけど、それでも半日から丸一日じっくり対話したくらいの体感はある。
YouTubeやブログでも、発信者に共感して人柄を好きになることもあるにはある。
例えるなら、本がサシ飲み(朝まで)だとすると、YouTube.ブログは大人数の飲み会で隣になって(1時間くらい)喋ってる感じ。
私はリアルな対人関係でもサシ飲みの方が好きだ。広く浅い大学のサークルみたいな人間関係がどうしても苦手である。
本は書くのに時間がかかって、それだけ情報量も濃いからだと思うが、1冊だけでも著者を好きになるのに充分すぎる材料になる。
そして、この「好き」が「信用」なのだなと思う。
1冊読めば、著者を信用するかどうかを決められる。というか無意識レベルで決まる。
この人の他の本も読んでみたい!と思うのは、「信用」したからだ。
これは前述したような、出版元とか著者の経歴とかは全く関係ない。
商業出版でなくても、顔も本名も経歴も分からず、専門性もなくても、丸一日じっくりと対話するような体験をして、「この人好きだなぁ」とか「共感」できると思えば、そこには著者に対する「信用」が生まれている。
こんな風に、正味2〜3時間で会ったこともない人を「信用」できるのって結構すごい。
もし信用主義経済が本当に現実化するなら、その時、本が果たす役割は相当大きなものになりそう。